蝶人戯画録

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鈴木杜幾子著「フランス革命の身体表象」を読んで

kawaiimuku2012-04-12



照る日曇る日第508回


ジェンダーから見た200年の遺産という副題が付されているように、これは人類の半分が女性である以上、美術史学もまたその事実を尊重すべしと断言する、新古典主義について造詣の深い著者に因って執拗に掘り起こされたフランス革命時代の絵画や彫刻、建築、図像等の新解釈である。

これまでの美術史はそこで出現する身体について男女の性差を考慮に入れず、いわば「普遍的なもの」として取り扱かわれてきたことに激しく異議を唱える著者は、あえて女性の観点に立った身体論の適用に因って「フランス革命史の一点突破全面書き換え作戦」に挑戦しているともいえよう。

著者が解き明かすように、ダヴィッドの代表作「マラーの死」においては、美しき女性暗殺者コルデーの姿をあえて画面に登場させないことによって、当時既に身体的にも経済的にも政治的にも限りなく死に瀕していたジャコバン派の醜男を、一挙に「不滅の男性革命家」に引き上げる政治的役割を果たしたし、ロマン派の曙を告げたドラクロワの「民衆を率いる「自由」」に描かれたもろ肌脱ぎの女神は、「自由」という観念に導かれてバリケードを越えて進むパリの、なんと「男性」!を描いているということになる。

著者がいうように、自由、平等、博愛を標榜して民衆が武装放棄したフランス革命の初期には民衆の女たちが大活躍を遂げたにもかかわらず、彼女たちはすでに革命の最中に男性革命家たちによって抹殺され、美術に登場するのは「現実の男たちと抽象的な女の凍った身体」に過ぎなかった。

このように栄光の大革命は、男が外で活躍し女は家庭内でそれを優しく支えるという男女の役割分担システムの草創期であり、その本質は「女性不在の男性革命」であったとする著者の見解は、事の真相の一端を鋭く剔抉するものではあるが、来たるべきフランス革命美術史は、男性性と女性性を止揚した男性女性性の統一的視座の元で書かれるべきではないだろうか。

男性性に依拠した美術史が女性性を武器にした新美術史によって駆逐された暁には、その双方を弁証法的に止揚し終えた男性または女性、あるいは心身ともに両性を兼備した双方向トランスジェンダーたちの手で「次代の新々美術史」が編纂されるに違いない。


ダルが投げイチローが打つ愉楽哉 蝶人