ある晴れた日に第129回&遥かな昔、遠い所で第90回
6月のうた第2号 「おり」より「たり」
2013年5月18日、俳人の山田みづえさんが老衰で亡くなられた。亨年86。風の便りでは長く認知症を患われていたという。
山田さんは1926年に本居宣長以来の国学の伝統に連なる最後の国学者、山田孝雄の次女として宮城県仙台市に生まれた。兄は「新明快国語辞典」の山田忠雄、同じく国語学者の山田俊雄という偉大な古典学者の血脈を引き継いでおられた。
石田波郷に師事し、1976年に俳人協会賞を受賞。76年から「木語」主宰、句集「忘」「中今」、随筆「花双六」などの著作があり、晩年は江東区の芭蕉記念館などで俳句を教えておられたことは、私がそこに貼られたビラで確認している。
ところが私は長年にわたって同じ会社で働きながら、彼女がそういう立派な経歴の持ち主とは夢にも思わず、“ちょっとうるさいタイピストのおばさん”と思っていたのである!
みづえさんは、わが社の顧客へのお詫びの言葉に「海容」という言葉を使った若輩者の私に興味を懐いて、私が生まれて初めて作った「鎌倉の海のほとりに庵ありて涼しき風のひがな吹きたり」という下手くそな歌を「悪くないわよ」と褒めてくれ、
「でも、吹きたりを吹きおりにするともっといいよ」
と教えてくれたりする人だった。
それでも「おり」より「たり」の方がいいと頑なに思いこんでいた私が、いや、やっぱり「おり」の方がいいなと気付いたのは、それから半世紀近く経ってからのことだった。
というと、いかにももっともらしい嘘になる。
ほんとは、私は山田さんの傍らで働いていた「鎌倉の海のほとり」の娘を恋するようになり、彼女が越してくるまでは鈴木清順監督が住んでいたという「庵」を詠んだその歌を、誰からもいじられたくなかったのである。
そんな途切れとぎれの記憶の繋がりのなかで、いつも謹厳な学者の娘のたたずまいを残していた小さな女の子のような山田みづえさん、さようなら。私はあなたのことをけっして忘れないでしょう。
合掌。
「たり」よりも「おり」がよろしと言われたり厳父孝雄の眼光をもて 蝶人