蝶人戯画録

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ドナルド・キーン著「日本人の美意識」を読んで

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照る日曇る日 第608回

 

日本人の美意識は足利義政の東山時代にそのエッセンスが確立されたといわれているが、著者はその美意識を1)「暗示」または「余情」、2)いびつさ、ないし不規則性、3)簡潔、4)ほろび易さの4つの視点からくわしく解説している。

 

2番目について私の個人的な思い出はフランスのヴェルサイユ宮殿の大庭園を遠望した瞬間に脳内に惹起しためまいと吐き気で、この広大な空間を整然とした幾何学的な法則で整除しようとする西欧人の非情な意図に、私のそれこそ「日本的な」感性は、生理的に反発したのである。どうしても受け容れられない非人間的かつ天に唾する邪悪で悪趣味な美意識として。

 

わたくしのこれと同様な生理的嫌悪は、例えば都心の超高層ビルやマンションを見上げた瞬間にも湧きおこってくる。これらの建築物は「簡潔」さこそ備えてはいても、「暗示」も「余情」も「不規則性」もないが、鉄とコンクリートとガラスによる頑丈な矩体であるはずのそれらに、立ちあげられた時点ですでに内在している「ほろび易さ」が垣間見られるのは不思議なことである。

 

もしかするとバベルの塔のように天空に伸びる建築たちは、それらの人間たちの神をも恐れぬ不遜なたくらみの空しさを見抜き、おのれを待つ不吉な運命におののいているのかもしれない。

 

しかしものみなが激しく推移するこの節では、徒然草の中で兼好法師が「すべて、何も皆、ことのととのほりたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり」と喝破したり、松尾芭蕉が「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」と吟じた日本美学の根幹も、急速に失われつつあるような気がしてならない。

 

わが書きしメールを消さずその上に返信する人の無精を憎む 蝶人