蝶人戯画録

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川喜多映画記念館で稲垣浩監督の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」をみて

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闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.610&鎌倉ちょっと不思議な物語第305回

 

なんというても師走だし、それに原節子嬢の最後の出演作品だし、ということで鎌倉小町の川喜多映画記念館に駆けつけましたらぬあんと207分の長丁場で閉口しました。

 

しかしさすがは職人稲垣カントクで、1962年当時の有名スタア総出演の「超大作」をじつに要領よく撮っては切り、切っては繋いでいること、音楽の伊福部昭が時代劇であるにもかかわらず例の「ゴジラ」と同工異曲の劇伴をつけているのには感嘆しました。

 

内蔵助は先代の松本幸四郎吉良上野介はやはり先代の市川中車歌舞伎役者がしっかりとアホ莫迦浅野内匠頭加山雄三を支えており、脇から俵星玄蕃三船敏郎が両国橋で助っ人という布陣ですが、内蔵助の妻おりくに扮したくだんの原節子様の出番は哀れなことにほんのちょぴり。

 

内蔵助に離縁され、山科の陋屋から駕籠に乗って去ってゆく涙涙の永訣のシーンが、彼女の文字通り最後の活動写真姿となったのでした。

 

この映画が封切られたのは62年の12月ですが、還暦を迎えたその当日の翌63年12月12日には小津監督が死去。北鎌倉の自宅における通夜に出席したその日から、銀幕の大スタア原節子は姿を消して今日に至っています。

 

私が鎌倉に住んでざっと35年になりますが、しかしこの頃まだ浄明寺の熊谷久虎監督邸の離れに住んでいた彼女は、訪ねてきた司葉子たちとマージャンに興じたり、近所で買い物をしたりしていたと近くのオバサンは言うております。

 

同じ町内の脚本家、野田高梧宅を訪ねたりしていたのではなかろうかと愚考するのですが、やがて彼女はなぜか次第に外出を避けるようになりました。

 

小学館におられた「日本国憲法」の島本脩二氏から、当時上司から熊谷邸付近の張り込みを命じられたというお話を伺ったこともありましたが、あわよくばフォーカスしてやろうという芸能関係者も多かったし、かく申す小生も浄妙寺への散歩のついでに生垣の向こうを覗いてみるという、超はしたないこともやっておりましたですなあ。

 

われらが永遠の原節子嬢は、今年とって93歳。だいぶ前に鎌倉を去ってどこかの病院か施設に入所されているようですが、いつまでもいつまでも長生きして頂きたいものです。

 

往年の大スタア次々に逝くめれどわが原節子のみ永遠に生くらむ  蝶人

 

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