蝶人戯画録

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山本周五郎著「栄花物語」と辻善之助著「田沼時代」を読んで

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照る日曇る日第642回&第643回

 

 

「栄花物語」は、平安時代の藤原道長一族の栄華を描いた女子の手になる歴史物語であるが、こちらの「栄花物語」は宝暦、明和、安永、天明の30年間にわたる老中「田沼意次の時代」を舞台に、田沼父子と2人の武士を主人公に描いている。

 

ここで作者は世上賄賂で私腹をこやし専断政治を行った悪辣非道の成り上がり大名として指弾されることの多い田沼意次を、商業資本の台頭に呑みこまれようとする幕府財政を、経済の自由化や貿易や干拓事業によって救済しようとした、知的で冷静で開明的で意志強固な政治家として描き出すことに成功している。

 

「悪狸」どころか、暗黒時代の唯一の光明として田沼を浮かび上がらせるこのような視線は、もちろん大正4年に出版された辻善之助の「田沼時代」から学んだもので、同時代に生きた2人の武士の暮らし振りや様々な事件や人間像もここから吸収したものが多いことは、両書を読み比べてみれば一目瞭然だろう。

 

面白いのは、辻が歴史的資料に拠りながら彼が賄賂を取り贅沢な生活をしながら民権と文化文明を発達させ、時代の先駆けとなる開国思想を懐いていた近世最大の自由思想家として田沼意次を描きだしているのに対して、山本はそこまで歴史的視野を遠望することなく、むしろ眼前の課題に対して、それが負け戦と知りつつ絶望することなく最後まで戦う悲愴感みなぎる思想の武士として描いていることである。

 

しかしこれを読みものとして比較すれば、さすがの山本も辻の口述筆記本の圧倒的な面白さにはまるで勝負にならず、素人のように裸足で逃げ出さないわけにはいかないだろう。

 

 

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