蝶人戯画録

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ドナルド・キーン著作集 第八巻「碧い眼の太郎冠者」を読んで

 

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照る日曇る日第647回&音楽千夜一夜第320回 

 

 

谷崎潤一郎が序文を書いている表題作、外国人向けの本邦案内書である「生きている日本」、各地の訪問記である「日本再見」、そしてクラック音楽についてのエッセイ「わたしの好きなレコード」他一篇の三冊の単行本を一巻にまとめた分厚い本であるが、なんといっても面白かったのは、かつて「ドナルド・キーンの音盤風刺花伝」というタイトルでレコード芸術に連載された音楽談義である。

 

メトロポリタン歌劇場の全盛時代に著者が耳目を属したフラグスタート、メルヒオール、ピンツア、ビヨルリング、ニルソン、カバリエ、ロス・アンヘレスなどへの共感もさることながら、50年代のカラスの「トスカ」をまの辺りにした著者が、「私を愛して、アルフレード、私があなたを愛するのと同じくらいに!」と叫んだ時のカラスと、光源氏への愛と現世への愛をいままさに捨て去ろうとする瞬間の六条御息所のためらいを重ねて見せる時、それは最高の高みに達するのである。

 

私は「フィガロの結婚」の白眉は、第4幕の最後でアルマヴィーバ伯爵が許しを乞い、伯爵夫人がそれに応ずるわずか数小節にあること信じている(だからベームが素晴らしく、アーノンクールなぞ二流三流の指揮者の演奏が全然駄目なのだよ)が、著者もその見解を認めたうえで、モーツアルトの天才は、他の作曲家がしたであろうようにその黄金の旋律を繰り返して展開しなかった底知れぬ懐の深さにあると論じているが、さもありなんと頷かれる。

 

ミラノスカラ座で「神々の黄昏」のサクラに雇われた話、1941年のメットでワルターフラグスタートの、1950年のザルツブルク音楽祭におけるフルトヴェングラーとまた彼女との「フィデリオ」を聴いた著者の終生忘れ難い感動、英コベントガーデンでカラスの「ノルマ」を聴いた著者の絶叫が、その海賊版CDに収録されている話、三島由紀夫は「レオノーレ序曲第3番」を聴いているうちに「「獣の戯れ」のプロットを思いついた話等々、じつに興味深い逸話がてんこもりの本書は、音楽と文芸の共感覚について話が及び、「詩の一行が音楽と化し、一節の旋律が一篇の詩に行きわたる」と論じたうえで、次の一句を示して画龍点睛の見事な大団円となる。

 

       海くれて鷗のこゑほのかに白し はせを

 

なにゆえに突然悲哀に墜ちるのか倹しき我が家も妻子もあるのに 蝶人