蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

クレールの膝~「これでも詩かよ」第72番

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ある晴れた日に第211回

 

 

安西水丸さんが亡くなった。71歳というのはだいたいそれくらいの年だろうと思っていたので驚かなかったが、それでも死ぬにはまだまだ早すぎたのではないだろうか。

 

新聞の報道では、西暦2014年3月17日午後2時ごろ鎌倉市内で執筆中に脳出血で倒れ、病院で治療を受けていたが19日午後9時7分に亡くなられたそうだ。

 

おそらく小説かイラストをかいている最中に身中になにかが起こったのだろうが、私はその記事を読んで、これは戦闘中の戦士の戦死だと思った。

 

ちょうどその頃、私は同じ鎌倉の芸術館で予約したチケットの代金を支払ってからヤマダ電機で3穴の接続コードを買うために田園通りを歩いており、遥か遠くのクリミア半島では、ウクライナからロシアへの帰属を決める国民投票が行われていた。

 

安西水丸さんの本名が渡辺昇さんで、彼が東京から鎌倉に越していたということもその訃報ではじめて知ったことだったが、私にとっては渡辺昇よりも安西水丸が水丸的だし、鎌倉のどこかに住んで湘南鎌倉病院なんかで死ぬより、仕事場が南青山で自宅が原宿の安西水丸の方が水丸的なのだった。

 

80年代のリーマン時代にイラストを使うテレビCMを製作したおり、私は水丸さんの原宿の自宅に伺ったことがある。

 

桑原茂一さんが開店した伝説のクラブ「ピテカントロプス・エレクトス」が地下にある古いマンションの一室に氏は優雅に暮らしており、当時私が勤務していた会社のビルヂングはその隣に建っていた。

 

「このマンションの真下に赤いポストがあるでしょう。あそこにね、一日に何回かあなたの会社のミニスカートのOLが、郵便物を投函しにくるんですよ。ところが彼女の身長よりもポストの口が低いので、彼女は微妙に膝をクの字に折りながら封筒の束を入れるんですよ。ボクはここからその膝を眺めるのが楽しみでねえ。いやあ、たまんないなあ。じつにいい。いいんですよお」

 

と水丸氏は、あの屈託のない笑顔で顔中をくしゃくしゃにしながら、彼の秘められた心中の嗜好を遠慮なく晒け出す。ちょうどその頃公開されていたエリク・ロメール監督の「クレールの膝」を2人とも高く評価していたのである。

 

で、私もよせばいいのについ調子に乗って、

「そうなんですか。それじゃあそのクレール嬢を紹介しましょうか」

と気をひいてみると、水丸先生はすっかりその気になって、

 

「もし佐々木さんが会社のクレール嬢を紹介してくれたら、僕はいまお気に入りのカレー屋さんがあるので、彼女をそこへ連れてゆきます。絶対連れてゆきます。あそこのカレーは最高です。いやあ愉しいだろうなあ」

 

と、勝手に想像をたくましく膨らませているのである。

 

それからどうなったかって。

どうにもなりゃしないさ。

 

会社に戻った私は、総務や営業や広報などで郵便物を例のポストに投函しているクレール嬢たちを相手に、いかに安西水丸選手のイラストエッセイや絵本や小説や漫画がお洒落でチャーミングかつ深淵な芸術であるかについて滔々と語り、

 

そんな素晴らしいクリエーターと原宿一、いな東京で一番美味なカレーライスを一緒に食するデートの悦楽について言葉を尽くして論じ立てたのだったが、その努力が報われる日はついに来なかった。

 

いや、たったひとりだけ広報のK嬢だけがつとに水丸氏の真価を熟知しており、熱烈なファンであるとも告白してくれたのであるが、

 

「えっ、カレーライス? 嘘でしょ!?」

 

の一声と共に、すべては終わったのである。

 

今では原宿のマンションのその部屋も、「ピテカントロプス・エレクトス」も、私の会社のビルヂングも、その入口の赤いポストも、ポストの前でちょっと膝を折ったOLも、それをカーテンの陰からこっそり見下ろしていた当の水丸さんも、どこか遠い遠いところへ行ってしまった。

 

さようなら水丸さん。そこでしばらく遊んでいてくださいな。また一緒にクレールの膝を探しませう。

 

 

なにゆえに今日が当地の開花記念日なの亀田さんチの桜がいま咲いたから 蝶人