蝶人戯画録

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高橋源一郎著「101年目の孤独」を読んで~「これでも詩かよ」第73番

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照る日曇る日第665回 &ある晴れた日に第213回

 

親が障がい児を持つということは、健常児を持つことに比べて時間的にも経済的にも心理的にも少なからぬ障がいと重荷を担わされることを意味するんだな。

 

しかし当事者にしてみれば、それを上回るというか、そんな事情を超絶してしまうような生きる喜びと思いがけず遭遇し、人世の掛け替えのない真実を見いだせる恰好の機会でもあるということが、「障がい児を持ちそこねた」著者によるこの本を読むとよくわかるんだ。

 

余人はいざ知らず、身近に右往左往している障がい児者を眺めていると、私の心は武装解除された兵士のような不思議な安堵感に包まれ、それがなにか彼岸からの使者というか贈り物のような気持ちがして、疲れた心が慰藉される。

慰藉される。

 

「この世ならぬものからの光を感じる」と、生涯に一度くらいはいうてみてもよろしいか。

よろしいかな。

 

もとより障がい児者の多くは、この社会の中では最後まで自立できず、最後まで弱者であり、周囲の健常者と競争したり競合する余地はハナからない。

ハナからないのだよ。

 

彼らは、誰とも争えないことによって争わず、いかなる勝負からも最初からオリテいるのサ。

オリテイル。

 

生まれながらに敗者であり、生けるデクノボウのごとき彼らは、そのように徹底的弱者であり絶対的無力者であり続けることによって、健常児者の全員が徹底的強者と絶対的権力者を指向するこの非情かつ非人間的な競争社会に対峙するもう一つの弱弱しいけれど独特の価値観を、嵐の海に輝く灯台の光のように示し続けているのではないだろうか。

灯台の光!

 

私たちはみんな生まれてしばらくは無力な弱者であり、生涯の終末期に入ればどんなに頑健な強者もふたたび同様の無力な弱者に帰る。

弱者に。

 

だからすべての健常者は本質的に内在的な障がい者であるほかはないのに、私たちは普段はそのことを忘れている。

忘れているんだ。

 

もとよりなにが人間にとって幸福かは軽々に論じることはできないが、私たちがいちばん幸福な時期とは赤ん坊の時代や赤子同然となった終末老人期にあるのかもしれないな。

 

そのとき、私は見たのだった。

曇天の空高く、かの無力主義と敗北主義と反闘争主義の白旗がゆるゆるとうち振られる姿を。

 

 

なにゆえにわが長男は自閉症になりしやわがニコチンを胎児に喫ませしゆえ 蝶人