蝶人戯画録

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古井由吉著「鐘の渡り」を読んで

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照る日曇る日第669回

 

 

いまは平成の御代であって平安時代ではないのに、引っ越しの前夜に引っ越し先とは方角が異なる場所で夜を明かす「方違え」、頭のうちそとで幻の寺の梵鐘が微かに鳴り響く表題作も面白かったが、本書に収められた最上の短編は疑いもなく最後におかれた「机の四隅」であろう。

 

芭蕉最晩年の「入月の跡は机の四隅哉」という一句を枕に語り起こされるこの魂の遊離、静かな離魂の物語は、十年一日のごとく机に向かって端坐している主人公が、梅雨時の夕べにふと思い立って、家の向うの林の中の紫陽花の花盛りのほの暗い路を辿るうちに、時と所の感覚を失い、やがて元の住処に戻ろうとゆるゆら歩みながら無人の座敷の机の四隅を幻視するところで、われひと共に虚無の天地に暗溶してゆく一種の怪奇噺でもある幻想譚で、末尾には「紫陽花にわれも机の四隅かな」という一句が終止符のようにさりげなく置かれている。

 

著者得意の神仙自在境の魔術といえばその通りだが、人世の機微についてこれほど深々と余韻を残す短編を描ける作家はいまどきどこにもいないだろう。

 

 

 

なにゆえに偶には立ち上がってグワアグワアと吼えぬか三越のライオン 蝶人