蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

夢は第2の人生である 第16回

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西暦2014年弥生蝶人酔生夢死幾百夜 

 

 

引越しをした。現地につくと段ボールから出された荷物が全部家の前に並んでいる。驚いた。机も椅子も本もピアノもお皿もまるでその空き地が居住空間であるかのように配列されているので、パソコンに向かって日記を書いていると、雨が降って来た。3/30

 

島崎藤村の身内の何回忌だというので、その生地を訪れた私だったが、そこは山奥の薄が茫々としげる草原の真ん中の一軒屋で、まわりには誰も住んでいなかった。平屋の八畳間には大きなテーブルだけがどかんと置かれていた。3/29

 

黒光りがする頑丈な古材のテーブルには、私の右に見事な白髪の島崎藤村、まん前には壮年の森鴎外、左にはまだ若さが残る夏目漱石が座っていたが、彼らの顔は逆光でよく見えない。藤村の手には子供の作文か悪戯描きのような紙片があった。3/29

 

「君は何駅で降りたのかい」と尋ねると、鷗外が「某駅だ」と答えた。それぞれ違う駅からここへ来たらしい。すると藤村が、「なるほど漱石君は一つ先の駅を降りてまず墓参りをしてからここへやって来たというわけだ。そういうコースがあるとは私も思いつかなかったとな」といって愉快そうに笑うのだった。3/29

 

その町の寄り合い所には、意見を異にして敵対する2つのグループ全員が、手に手に武器を携えて結集していた。はじめのうちは荒あらしい言葉の応酬だったが、誰かが誰かを殴ったのを皮切りに、たちまち白刃がきらめき、弾丸が飛び交う阿鼻叫喚の巷と化した。3/29

 

集英社やマガジンハウスの編集者が集まって、なにやら懸命に企画案をプレゼンしているのだが、おびに短したすきに長し、で行き詰った私たちは、テーブルを離れて午後のコーヒーを飲みにいった。3/26

 

後楽園ホールで開催される「ばちかぶり」の雲古ライヴに行こうと彼女と一緒に水道橋の改札口を出ようとしたら、三角形の頂点にあたる場所に黒メガネをかけたチンピラが立ちはだかって通せんぼうをするので、一発でノシてやった。3/25

 

西武グループの御曹司のはずなのに、テレビや週刊誌でしか知らない立派な顔をした堤一族が勢ぞろいした大会議の中で、私は蒼ざめた顔付きで黙り込んでいるしかなかった。3/24

 

大震災のために横倒しになった路線バスが、公園の中に倒れ込んでいたので、カルテットのメンバーである私たち4人は、その内部の狭い空間を活用して、練習したりミニコンサートを開いたりしているのだった。3/23

 

地下鉄に乗ろうと下降していくと、道はまるで大蛇の巣穴のようにどんどん大きくなり、また丸くなって地下へ地下へと降りてゆく。不安に駆られた私は携帯を掛けたが通じず、仕方なくほぼ垂直に落ち込む真っ暗な道を落ちていった。3/22

 

ある会社に飛び込み営業を掛けて、出てきた若い女性社員の下着を脱がせて、その場でなにをしようとしていたら、アメリカ人のおっさんが「スミマセンガ」と道を聞くので、彼女とつがったまま廊下に出て「あっちだよ」と教えると「サンキュウ」といって立ち去った。3/22

 

医学生の私は、男性の死者たちのペニスを解剖して、そこに刻まれている彼らの末期の言葉、すなわち「金言」を書きとめ、遺族に教えると共に私の博士論文の糧としていた。3/22

 

私は歌舞伎のチケットを買いに来たのだが、大きなビルヂングのどのフロアに売り場があるのか分からず、エレベーターが止まるたびに外へ出ようとするのだが、すぐに扉が閉まってしまい、結局買うことが出来なかった。3/21

 

善行を施す度にその人の評価は高まり、彼が住んでいる石川島を見下ろす超高層マンションの彼の住処は上へ上へとあがってゆき、とうとう最上階のペントハウスに到達したのだが、今では避雷針の直下の小屋に住んでいる。3/21

 

敵鑑からの集中砲火を浴びて30数発の砲弾に見舞われながらも、私が搭乗している戦艦は無数の損傷を蒙りつつも奇跡的に運行に支障はなく、毎時20ノットで疾走しているのだった。3/20

 

ファシストたちが罪なき市民をほうりこんでいる収容所の中で、私は普段の習慣を改めることができず、取締官の目を盗んで、夜な夜なぐうたら日記をパソコンにアップしているのだった。3/20

 

小中高大学と何も勉強らしいことをしないで卒業し、会社に入っても同じような状態で呆然と過ごしていたが、そこを追い出されてからは少し勉強を始めたけれども、それがとんでもなく遅すぎたのだった。3/19

 

自殺未遂の青年に、少年の私が「どうして死のうと思ったの?」と尋ねたら「いずれ君にも分かるさ」と答えたが、まもなく死んでしまった。やがて私が彼と同じ年になった時、私も自殺してしまったのだが、その時になって初めて彼の言葉の意味が分かった。3/18

 

午後6時ごろになってようやく電気が来たので、店の照明を調整したり、電気仕掛けのPOPを動かしたり、BGMを掛けたりすることが出来るようになった。3/17

 

肝心の商品がよくないうえに販売網に破綻が生じているというのに、宣伝広告を強化すればこの危機を突破できると説くM部長の頑固な能天気を嫌って、私たちは全員で休暇を取ってピクニックに行った。3/16

 

震災による停電がようやく回復してきたので、それまで天井を向いていたショップの照明の向きを変えて真下にしたら、売り場の雰囲気が明るく楽しいものへと一変した。3/15

 

夜遅くまで残業をしていて腹が減った。中野坂上の駅前広場のようなところの店でなにが出来ると聞いたら、カレーライスとランチの炒め直ししかダメだというので屋台のラーメンを探すことにした。3/14

 

大名行列の先頭を歩いていた侍が、突然大刀を抜きはなって、後続の武士たちを斬りつけながら、中央の駕籠に向かって殺到してくる姿が目に入った。3/13

 

今日明日のオケの演奏曲目が、ハイドンとモザールの後期交響曲をそれぞれ3曲だというのに、指揮者は現れず、なんのリハーサルもないので、私たちはだんだん不安に駆られてきた。3/12

 

その若い女性は英国大使館の窓口担当だったが、彼女が黙って右側の席に座ると、左の席から窓の外に出てくる英国国旗が、まるで音声付のロボットのように、英国の観光案内を始めるのだった。3/11

 

朝日新聞の歌壇に自作の短歌が掲載されているかどうかを確かめようと、作品を書き込んだパネルを持った私は、往来を通行する人々に見境なしに尋ねたのだが、みんな怯えた表情で逃げ出すのだった。3/10

 

去年は17歳、今年は同じイタリア人だが20歳の女性と弧島でひと夏を過ごすことになった私だが、他にすることもないので朝から晩まで幾たび性交に及んでもついにそれを最後まで貫くことができないのだった。3/9

 

東京ドームでファッションショーがあり、イケダノブオと一緒に見物していると、隣の席の男が「ちょっとやってみませんか」と言ってリトマス試験紙のようなものを持ってきて私の胸に張ると、「あなたガンですね」と宣告したので、愕然とした。3/7

 

なんでもさる引取り屋が息子を引き取ってくれることになったので、準備万端を整えて業者が来るのを待っている間に、彼は何杯も何杯もカレーライスをお代わりするのだった。3/6

 

鈴木、杉本の2人のリーダーに導かれた我らのチームは、勝抜きゲームに勝利した。なんでも御馳走してやるというので今では貴重品となったウナギのかば焼きに舌鼓をうっていると、いつのまにか奇麗どころが膝の上に乗っているのだった。3/5

 

次から次へと山海珍味が目の前に並んだが、私の胃腸は最新のハイテク技術でこんとろーるされていたので、どんどん退治していった。3/4

 

中学校の中川という女性音楽教師の下宿に招かれた国語教師の私は、彼女がショパンの小犬のワルツを弾いている背後から抱き締めて、その張り切ったお椀形の両の乳房をゆるゆると揉みしだいた。3/3

 

雪は次第に解けはじめていたが、まだ人間ピラミッドは確固とした形態を維持していたので、私はその一角に潜り込んで次の大震災に備えることにした。3/2

 

私は貧しくてお金がないので、さる富豪の家の前の道路の下にある地下室に住まわせてもらっていたが、そこは日の光こそ差さないが、広くて静かで、なかなか快適な環境だった。3/1

 

 

なにゆえに蓮の葉っぱを好むのか君は生まれながらの仏様ゆえ 蝶人