蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ベトナム戦争の映画をみて

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闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.913、914

 

 

マイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」をみて

 

 アメリカの田舎の山奥で鹿を撃っていた男たちが、ベトナムくんだりまで引っ張り出されて敵国人を無闇に撃ち殺すのだが、その敵に捕えられると自分で自分の頭を撃つ羽目になる。

 

 3つの段階を経て銃を向ける対象が変わるにつれて、銃で相手を殺すことの意義や意味もだんだん不分明になっていき、ついには絶えず第3の段階で自己を確認しなければ生きている意味を体感できなくなってしまう。

 

 自己解体の危機をかろうじて逃れて、命からがらようやっと故郷に戻って来た主人公たちの空無を埋めるものは、もはやアメリカ賛歌の合唱だけである。

 

 

 

フランシス・コッポラ監督の「地獄の黙示録」をみて

 

 戦争はいつもそうであるとはいえ、ベトナム戦争がいかに非人間的なものであったか、またそれがいかに米国市民の精神に痛打を与えたかをマイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」ともども伝える映画だったが、いまみると後者ほどの内容に乏しい表面的かつ煽情的な作品ではないかと云う気がする。

 

 カーツ大佐がなぜ米軍人のエリートコースを外れて密林の奥の帝国の王のごとき存在になったかもよく分からないし、カーツを王とあがめるアジアの民衆も漫画的な存在だし、そのカーツを暗殺するに至る主人公の心の中身もよく分からない。

 

 コッポラの目には北ベトナムやベトコンの実体がほとんど見えていなかったのだろう。

 

 ラストでカーツは「恐怖だあ、恐怖だあ」と呟きながら死んでいくが、本当の恐怖はベトナム人と派手に殺し合うアメリカ人の心の中よりもいっっけん平和に生きているわれわれの日常生活を一皮めくったところに転がっていることを、当時のコッポラは知らなかった。

 

 

  イチローに安打が出ないと暗くなる私もアメリカと戦っているんだ 蝶人