蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の老人の話(1)

私の家は昔から不思議に男の子が生まれへん家でしてなあ、三代四代と養子を続けておりました。そこへ私が生まれたのでありますが、その私はまことにひ弱な、しなびたみっともない子でしてなあ、母は恥じて人には見せなかったと申します。

 それがどうにか育って青年になりはしたものの、やはり病弱で、徴兵検査には肺浸潤と診断されて兵役免除になり、せっかく勤めていた会社もやめてしまいました。

父母は弟に面倒を見てもらうつもりで私をあてにせず、親戚の者からもせいぜい安月給取りになるくらいしか仕方がないと思われ、親譲りの下駄屋をやっていくだけの甲斐性もない者として、すっかり見くびられていたのがこの私やったんです。

それが古希に達する現在までなお健在で、これまでなんとかやってこれたことは、じつに見えざる神様のお導きとお守りのお陰であります。ここにこの広大無辺なるご恩寵に感謝し、なおまだ至らざる身に鞭打ちつつ、自らを修めて向上の一途を辿ってまいりたいと願っております。

母の眼病

 私が数えで十二のとき、三十三歳の母は四人目の子を産みました。

ところがこの子は育たず、そのうえに母は産後に眼を病み、眼はだんだん悪くなってとうとう失明してしもうたんです。

にわかめくらの不自由はたとえようもなく、私たち家族はなんとかして治そうと智恵をしぼりました。当時日本一の眼医者として知られた浅山博士が、京都府立医大病院の院長でごわした。

そいで急いで商売の下駄屋をしめ、父と私は弟と妹を親類にあずけて母をカゴに乗せ、二晩泊まりで京都に行ったんでした。東洞院仏光寺上ルの十二屋っちゅう宿屋に泊まり、翌日幸いなことに浅山院長に診てもらうことがでけたんどすが、「これはクロゾコヒといってとても治らぬ眼病です」と宣告されてしもうた。

母はがっかりして「もう死んでしもうたほうがええ」と泣き悲しみます。父も「どうしようか」と思案にあまって親子三人で途方に暮れておりました。(続く)