蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

日本一の養蚕教師!?

ある丹波の老人の話(11)第二話養蚕教師(5)

青野氏は金もあり、羽振りもよく、その庇護の下で仕事をする私はとても楽でした。

村の人たちも私のいうことをよく聞いてくれたんで、すべて思い通りにやることができました。

愛媛県が作ってくれたという稚蚕飼育場での共同飼育も好成績でしたし、それを各家庭に移したあとも、私は昼夜を問わず家々を駆け回って指導したので、最後までうまく行って一軒の落脱もなく、庄内村始まって以来の上出来だったので村の人たちは大喜びでした。

私だけでなく、京都府から行った教師のところはみんな成績がよく、繭の鑑定にかけても愛媛県の技術者よりはるかに優れていたので、あちこち引っ張りまわされ、京都府の蚕業のために大いに気を吐いたもんでした。

繭は入札で売られたが、庄内村の繭はその平均価格が愛媛一の最高値やったそうです。

あとで聞いた話では、青野家の人が、

「今まで入れ替わり立ち代り養蚕の先生がやって来たが、皆相当の年配でヒゲなどはやして威張っていた。人柄が下品で行儀が悪く、蚕飼いもさっぱり下手くそで一度もろくな繭が取れたことはなく、損ばかりさせられた。ところが今度京都から来た先生は子ども上がりの若造で、これがなにをやるか、と頼りなかったが、どうしてどうしてお行儀が良くて熱心で、謡曲も上手だし、お茶の心得もある。蚕飼いも前の先生方とはまったく違って上手にやってもらったから、ウンと儲けさせてもらった」

と言うておったそうです。

それから特に所望されて、あと二年立て続けに、都合三年この村へ通ったんですが、一度も失敗せず、年々非常に感謝され、記念品として沈金塗りの大鯛の立派なものをもろおたり、「○○先生記念桑園」と書いた大きな標柱を立てた桑畑までできました。

その後私は兵庫県の関ノ宮、大谷、船井郡の上和知、大倉、何鹿の奥上林、物部などへそれぞれ二、三年ずつくらい行って、私の養蚕教師生活は大正七年まで続きました。

船井郡に行ったとき、養蚕組合書記の加舎亀太郎君から、「君には日本一の養蚕教師給料を差し上げる」というて渡してもろうたお金が、たしか百八十円やったと記憶しとります。