蝶人戯画録

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ガルシア・マルケス著・旦敬介訳「十二の遍歴の物語」を読む


照る日曇る日第114回

「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。

 本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。

「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」

その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。

「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」

この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。



戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊