蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

真夏のマーラーこの身に浴びて


♪音楽千夜一夜第39回

まだ梅雨だというのにどんどん気温が上がって30度を超えた。まるで真夏のようである。

夏にはマーラーの音楽がよく似合う。ニイニイやウグイスが鳴き、カワセミが笑い、赤いカンナが微風に揺れる風景の中で第10番のアダージヨを聞いているところだ。
ロンドンのBBCのネットラジオはクラシック音楽を伝統的に大切にしているのでじつにうれしい。クラシックだけでも数多くのチャンネルがあり、ポッドキャスティングで24時間オンエアしているが、ここ1週間は6月にロンドンのセントパウロ教会などで開催されたゲルギエフ指揮ロンドン交響楽団の演奏によるマーラーの交響曲の全曲演奏を楽しんだ。
一昨日は7番、昨日は8番、そして今晩はこれから9番の放送があってチクルスの輪を閉じるのである。

ゲルギエフの演奏は全盛時代の若き小澤を遥かに凌ぐ精力的なものであり、フォルテッシモでは音響最悪のバービカンセンターを揺るがすような轟音を響かせるが、アダージオになれば一転して精妙で優雅な演奏を聴かせる。ヤンソンス、ラトルと並んでいまもっとも旬の指揮者であろう。(ただし残念ながらこの3人ともいずれも私の好みではないが)

ロンドンでのライブは大盛況だったようである。毎晩のように聴衆の大喝采が沸き上がり、それがスピーカー越しに伝わってくるが、演奏が終わってもロンドンの聴衆はわが国のそれとは違ってすぐにブラボーのドラ声を張り上げることがない。

終曲の余韻をしみじみとかみ締め、感動が胃の腑にずしりと落ちる。私たちは終演後の静寂こそが至高の音楽であることを知っているはずだ。

それからおもむろに三々五々両手を打ち合わせ、あちこちで歓声が上がるようになる。よい演奏の場合は、それが時を経るごとに頻度と強度を増していき、やがてそれがシャンシャン7拍子の拍を刻むにいたって歓声と賛嘆は堂に満ちる。また指揮があまりにも素晴らしい場合には、聴衆と演奏家はともに床をどんどん踏み鳴らすことによってその演奏を称える。

また演奏がよくない場合には、演奏後ややあって後に「ブー!」の罵声を遠慮なく浴びせかけ、拍手のひとつだって呉れてやることはない。

以前パリのシャンゼリゼ劇場ダニエル・バレンボイムがパリ管を振った「ドン・ジョバンニ」では、終演後の毀誉褒貶の嵐が耳を聾せんばかりに凄まじく、賛否が真っ二つに分かれた両派が猛烈なブー!とブラボー!を舞台に向かって10分間以上も浴びせ続けたが、その間作法どおりに右手を垂れて聴衆の評価に身を晒しているバレンボイムはなかなか格好よかった。
演奏家も聴衆も真正面から音楽に向き合っている真剣さと清々しさがそこにはあった。

このような姿こそが、長い歳月と経験を経て世界中で確立された古典音楽鑑賞の奥ゆかしい流儀作法ではなかったのではないだろうか。
ところが昨今のわが国のコンサート会場では、演奏の是非などに無頓着のブラボー屋が跋扈し、演奏がまだ終わらないうちに不気味な蛮声を張り上げる。会場で携帯を切らずに会話する無神経な輩に加えて、こういうアホ馬鹿聴衆が異常なまでに増殖してきた。なかには場内で殴り合いをする豪の者まで登場している。まことに情けなく嘆かわしい事態である。

最近TDKからムラビンスキーやベームの来日公演のライブ録音CDが出回っているが、それに耳を傾けるに、70から80年代前半までのわが国の聴衆が演奏家に示す品格ある反応は、世界のお手本であったと思わずにはいられない。
それがどうしてこのように無様に崩れ去ったのであるか。この現象は音楽以外の領域におけるボンサンスの崩壊に見合っているような気もするが、少しは歌舞伎の立見席を見習って欲しいものである。

山手線停まるやいなや突入す若き男のさもしき心よ 茫洋