蝶人戯画録

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ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む


照る日曇る日第171回

久しぶりにドストエフスキーを手に取った。話題の光文社版ではない。手垢のついた米川版である。昔から雑誌は改造、文庫は岩波、浪曲は廣澤虎造、小唄は赤坂小梅、沙翁は逍遙、トルストイは中村白葉、ドストは米川正夫と相場が決まっているのだ。

それはさておき、「カラマーゾフの兄弟」の最後の最後のエピローグで、多くの子供たちに囲まれてアリョーシャが別れの言葉を述べるくだりは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の末尾の合唱を思わずにはいられない。愛と許しと世界の平和を願う音楽だ。同じ作曲家による「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナの歌や少年天使の歌、近くはパブロ・カザルスの「鳥の歌」と同じ主題をドストエフスキーは臆面もなく奏でるのである。

それまでの数千ページを費やして、天上と地上、神と悪魔、男と女、貴族と農民、先進国と発展途上国、大人と子供、健常者と障碍者などの間に横たわる過去・現在・未来にまたがるいくつもの深淵を天空遥かなる高みから蛸壺の奥底まで観察し、人の世のどうしようもない存在様式と対立のありようを血と涙と愛をもって追体験し、それらを逐一なめるように描写してきたこのロシアの文豪が、謎の殺人事件による行き場のないカタストロフを無理無体に突破して地表に舞い降りた地点で、この天国の小鳩の歌が高らかに歌われるのだが、その調べはいつしか長調から短調に転じ、作家とアリョーシャの未来に不吉な影を投射したのだった。

事実まもなくドストエフスキーは書斎の書架の下に転がり込んだペンをとろうと無理な姿勢をとったのが原因で肺を傷つけ、あえなく急死し、作品のなかで何度も言及していたカラマーゾフ兄弟の続編はついに書かれないまま永久に未完で終わってしまった。

多くの人々が予想するように、その後のアリョーシャは汚辱にまみれたロシア社会の最底辺を行脚するうちに階級意識にめざめ、過激な社会主義者を経由してツアーリを暴力で打倒する一人一殺のテロリストになるに違いない。ドストエフスキーが亡くなった部屋の隣には、アレクサンドル2世の襲撃犯が潜んでいたのは周知の事実だ。

作家はアリョーシャに仮託して早すぎるレーニンの伝記を書こうとしていたのだろう。作家の脳髄の内部だけで成立していた「神なき世ではすべてが許されている」という仮説が、続編では“現実のもの”になるはずだった。

カラマーゾフの兄弟の長兄ドミートリー(ミーチャ)は無実の罪を逃れてファム・ファタール、グルーシェンカと新大陸アメリカに脱出するが、そこでいかなる運命が待ち構えているんだろう。想像するだにわくわくしてくるし、下男であり父フョードルの私生児でもあるスメルジャコフをシ指嗾して父を死に至らしめた次兄イワンと、恋人カテリーナの2人にはどのような未来がもたらされるのか。これまた興味深いものがある。

偉大なる文学者に突然降りかかったこの不慮の事故さえなければ、私たちはおそらく現在の3倍から5倍の長さの波乱万丈の大長編、悲劇も喜劇も併呑した驚異的な総合芸術をゆくりなく楽しむことができたであろう。太宰治の「グッドバイ」の未完と並んで、これを残念無念と言わずにおらりょうか。

♪100万匹の水母を裂きし博士かな 茫洋