蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

保坂和志著「小説、世界の奏でる音楽」を読んで


照る日曇る日第184回

とりあえずは大仰なタイトルといかにもな表紙の写真に辟易させられるが、本編に入るとこの人独特の小説とも評論ともつかぬ小説に対する思索やら随想がまるで牛の反芻のようにしつこく繰り返され、牛の唾液のように夥しく垂れ流される。

それらはところどころ抜群に面白く、確かに一定の意味があり、新たな発見もあり、私たちが小説や思想や哲学や絵画や音楽や、さらには人の世や人生などについてそれほどきちんと理解していないことをだんだん解き明かしてくれるのだが、それにしても先月号の「ソトコト」で田中選手だったか浅田選手だったかが、そのどっちがそう発言していたのかはもう忘れてしまったが、この本の著者が暇にあかしてどうでもいいことどもを日がな一日微分積分してよろこんでいる、だったかな、それともうつつを抜かしている、だったかな、ともかくそういう風にバッサリと斬って捨てていたけれど、まただからといってこのおふた方による気宇壮大な天下国家憂国談義の空論が、この本の著者によるいわば深く静かで音楽的かつミニマリズム的洞察よりもいちだんと高尚でハイセンスだというつもりなぞ毛頭ないのだけれど、いくら連載の締め切りが迫っているからと言って己の頭の奥底に仕舞っておいて発酵するのをじっくりと待っていたほうがモアベターな思藻の断片を無理やり記事にすることもないのではと思わないわけにはゆかなかった。

けれども、そのなかでもやはり著者が突如というべきか、それとも予定調和的にというべきか、死んだ小島信夫に成り替わって、というか憑依して、いかにもありそうであらぬことどもを「小説霊」にしゃべらせているくだり、それから次に紹介する長嶋茂雄がスランプに陥った掛布を電話で激励する逸話などは出色の出来栄えだった。

 「掛布くーん、いまちょっとスランプみたいですねー。ちょっと素振りしてみてくれる?」
「え?いまですか?」
「そうですよー。いまです」
で、掛布が受話器を置いて何回か素振りをして電話に戻ると、長嶋は
「3回目のがよかったねー。もう一度思い出してやってみてくれる?」
 と言ったという。

 著者は、「私はこの話を信じるし、長嶋茂雄という人はそれくらいの人であったと思いたい。その夜を境に掛布がスランプを脱出したのは言うまでもない(きっと)」と書いているが、どうして掛布もなかなかの者ではないか。

朝比奈の峠に斃れし土竜かな 茫洋