蝶人戯画録

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吉村昭著「桜田門外の変」を読んで


照る日曇る日第272回

今となっては水戸藩徳川斉昭尊王攘夷論に比べると、井伊大老の開国路線の方が時代に先駆けた近代性と開明性を備えた先賢の明であったように思われますが、しかし安政の大獄が猛威をふるったその時代にあっては、どちらが正しい選択肢であったのかを断じることはきわめてむずかしい。いや不可能に近かったのではないでしょうか。

ともかく朝廷の勅許を得ずに独断で米国との通商条約の締結に踏み切った井伊直弼に対して斉昭、慶篤父子を戴く水戸藩は怒り狂って反撃を開始し、とうとう朝廷から幕府討伐の勅命書を手に入れます。しかしそれ知った大老は斉昭に激しい憎悪を懐き、狂気の大獄を開始します。橋本佐内、吉田松陰頼三樹三郎、安藤帯刀など14名が切腹、死罪、獄門の極刑に科せられ、遠島以下の刑に処せられた者は100名近くに上りました。

しかもその中には女性や幼児やまったく罪もない人々が数多く含まれていましたから、水戸藩の面々がこの残酷な仕打ちを黙って眺めていようはずもありません。藩の中央の圧力と対抗しながら、この小説の主人公関鉄之助をはじめとする水戸脱藩士17名、薩摩藩士1名の計18名の志士たちは大老暗殺のテロルを計画し、実行するのです。

しかし見事に桜田門外の変を成功させたものの、彼らの末路はあまりにも悲惨でした。討死1、自刃4、深手による死亡3、死罪7の計15名が次々に世を去るのですが、著者は彼ら一人ひとりの生きざまと死にざまに対して無限の共感を懐きつつ、それをひとことも漏らすことなく、さまざまな資料を駆使し、博引旁証の限りを見せつけながら、粛々と叙述していきます。

さらにその探索の手は少しも緩められることなく、生き残った3人の身の上に及びます。そして文久2年、3月3日の討ち入りのその日に鎌倉上行寺で割腹自刃した広木松之介をのぞく2名が、それぞれ明治14年10月、同36年5月まで無事に余命を全うしたことを述べて閣筆するとき、読者は政治闘争に身を捧げた人生の栄光と悲惨についてしみじみと思いを新たにするのです。


♪妻が見しオオルリ求めて彷徨えどわれが聴きしはテッペンカケタカ 茫洋