蝶人戯画録

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平野啓一郎著「ドーン」を読んで


照る日曇る日第283回


「私小説は自慢話である。自分は絶対に書かない」ときっぱり否定するこの人。その言うや良し、です。

私が最初に読んだ彼の作品は、ショパンやドラクロワジョルジュ・サンドがまるで史実のように動き回る面白いロマンチック小説でしたが、その実録歴史風の時代がかった衒学的な文体がことのほか気に入りました。

ところがその次に読んだ「決壊」はまるで秋葉原事件の漫画風解説本のような趣で、主題こそ当世流行のネット時代のおける現代人の悪意と殺人事件を描いてはいるものの、登場人物にまるで存在感もリアリテイもなく、でくの棒のような不自然な人物造形と人工的なプロットに、「いったいこれのどこが小説なの?」と辟易させられたものです。

そこへ今回突然ドーンと登場したのが本書で、これは2033年に人類初の火星着陸を成功させたアメリカを舞台にした近未来フィクション小説です。

アメリカはもちろん全世界の家庭や街頭には隈なく監視映像ネットが隈なく張り巡らされ、全国民が複数のアバターを分かち持ち、それらのキャラクターをTPOごとに使い分けている「1人多重人格社会」がすでに確立されています。20世紀に揺らぎ始めた自己同一性原理は完全に破壊されてしまい、人類はそのアイデンティティをいかにして再確立するかに頭を悩ませているのですが、妙案は見つからず、その苦悩と分裂は深まるばかりです。

主人公は佐野明日人という日本人宇宙飛行士兼医師なのですが、世紀の偉業達成の陰に、彼の同僚の女性飛行士の妊娠、流産事件と言う不祥事、NASAのそのスキャンダルにからんだ大統領選挙の陰謀、さらに東アフリカ融解戦争への加担から派生したテロリストによるマラリア蚊兵器の登場等々、いかにも三文小説風、アメリカ流にいうとパルプマガジン風の「いかにもな事件」が次々に起こり、主人公とその家族たちを翻弄します。

つまりここで著者が闡明しているのは、いまからさらに時間が2,30年ほど経過し、科学技術が驚異的に発達しても、世界の政治と経済は相変わらず混迷を続け、人間の愚かしさはますますその度を加え、生も死もますます難儀になるぞ、という暗い予言なのでしょう。

しかしそんな小学生でもわかっているような当たりきしゃりき車引きのお話を宇宙関係の文献やらネット資料をもっともらしくどんどこ援用して500ページになんなんとする原稿用紙を無駄にする必要が果たしてあったのでしょうか? 

この小説に唯一救いがあるとすれば、そのタイトルの「ドーン」が英語のDAWNであり、人類の「ダウン」ではなく「夜明け」を暗示している点、そして毎回視点と文体を変えて新しい小説探求の旅に乗り出している著者の勇気でしょう。


古書市芥川全集3500円で叩き売る 茫洋