蝶人戯画録

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叫びと囁き 網野善彦著作集第14巻「中世史料学の課題」を読んで


照る日曇る日第286回


中世の人々にとって音声や楽器などの「音」はどんな意味を持っていたのでしょう。
まず著者は、寺や神社の梵鐘や鰐口は日常と聖なる世界を結びつける役割を果たしていたのではないかと指摘します。(本書「中世の音の世界」参照)

今でも私たちも鰐口を鳴らして頭を垂れてから、ご先祖に思いを致しているわけですが、勧進聖が寄付を集め、鋳物師に作らせた鐘や鰐口は、はじめから「聖なるもの」として位置づけられ、みだりに打ち鳴らすことが禁じられていたそうです。
梵鐘を造る儀式は荘厳に行なわれ、「吾妻鏡」には頼朝がその現場に立ち会うシーンが出てきます。(しかしその時はなかなか完成せず、業を煮やした頼朝は御所へ引き上げてしまったのですが)

このように聖なる場所や聖なる人物の周辺においては、法と秩序と権威を保つための「微音」が使われてきたと著者はいいます。たとえば天皇や上皇などの貴人は、囁くような小さな声で己の意思を伝え、そのメッセージは当初は脇の復唱者によって「高声」で伝達されましたが、我が国ではそのプロセス自体を次第に「文書化」するようになってしまった点がアフリカなどとは決定的に異なるのだそうです。

しかしいかなる場合にも「高声」はけしからぬこととされていたわけではなく、戦闘や強訴の際には許されていたようです。
たとえば中世の合戦では陣太鼓(攻め太鼓)を使っていました。しかし御家人たちも巨大な太鼓や銅鑼を打ち鳴らして攻めてきた蒙古軍には驚いたようです。おそらく中国大陸や朝鮮半島の楽器と当時のわが国のそれとはおなじ楽器でも相当異なる音響を発していたのではないでしょうか。たとえば韓国のサムルノリが鳴らす金管や打楽器は、私たちとは耳慣れない強烈なサウンドです。

けれどもこのような例外を除くと、中世人は心のままに高い声で発音したり、怒鳴ったりすることは「狼藉」とされ、これは現代においてもそうですが、殊に寺社仏閣では絶対的な静寂が厳しく要求されてきました。

ところがこのような「権力による音響管理」に断固として抗ったのが「高声」で歌うように、踊るように念仏を唱える親鸞や一遍、日蓮などの鎌倉仏教です。親鸞は和讃を節で歌わせ、時宗では踊躍歓喜という踊り念仏を躍らせましたが、著者はこれこそは宗教と一体になった芸能の原点であり、もしこの聖と俗、精神と肉体が一体化されたムーブメントが、朝廷や織田信長などの代々の権力者たちの弾圧を乗り越えて持続的に成長発展し続けていたなら、宗教と政治経済社会のみならず、我が国の芸能の歴史、歌謡と詩歌の歩みがこの時点で根本的に変異していただろう、とその秘められた可能性に着目しているようです。

いずれにせよ権力は囁きと静謐と秩序をひたすら好み、民衆は叫びと哄笑と歌とダンスを愛し、そのことを通じて神仏の世界、あの世とこの世を架橋しようと試みという関係は鎌倉時代から不変のものであったといえましょう。



      世の中は明日待たるるその宝船 茫洋