蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

映画「イージーライダー」を鑑賞する

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol.10


この映画は、2人の若者が広大なアメリカ大陸を東西南北気が向くままにハーレーダビッドソンにまたがって旅する一大遊行観光(光を見る)映画といってもよいでしょう。

砂漠もハイウエイも、巨大な岩石も、河川も森も太陽も暗闇も青空も風も雲もそれまでけっしてドイツ製のアリフレックスキャメラによって35ミリのカラーフィルムにけっしてとらえられたことのなかった映像でした。

高速で移動する車両から未知の空間に投げ出されたレンズは感激のあまり被写体の照準を意識的かつ無意識的に逸脱してグランドキャニオンに沈む真っ赤な夕陽を震えながら映し出します。

そして、この震えこそが映画イージーライダーの本質です。先住民たちが無心に眺め、そうした純真無垢な60年代末尾の風光明媚、いうならばアメリカ大陸の原風景がこのロードムービーには定着されているのです。

映画の終盤でマリファナとドラッグによって駆動された生と性と聖が三位一体となった幻想的な映像が人工的に繰り広げられます。これこそは私たちが80年代になって確立したプロモーションビデオの先駆的な実験ですが、最後にジャック・ニコルソンデニス・ホッパー、ピーターフォンダがその順番で住民から虐殺される有名なシーンは、ヒッピーに対する保守的な市民の悪意に満ちた暴力や殺意の表れとして政治的にとらえられることが多いようです。

しかし何度もこの映画を見ているうちに、この映画のこの「衝撃的な」ラストは、このエンドレスに続くであろう観光映画を劇的に終了させるためにホッパーたちが知恵を絞って考えた「よくある」ハリウッド映画的プロットとして考案されていて、そういう意味では、本作は世評に高いニューアメリカンシネマの傑作というよりは古臭いハリウッド映画ではないかという気もするのですが、こんな気がするのはたぶん私だけでしょう。

実際製作費の大半はこのラストシーンをいやがうえにも強調するための空撮に費やされ、後年デニス・ホッパーが監督した映画(たぶん「ホット・スポット」)のラストシーンがイージーライダーのそれと酷似しているのも偶然とは思えません。

深い確信もなく印字しているのですが、「自由民に対する殺意と暴力」よりも炎上するオートバイを急速に塗りつぶそうとする「緑の原野」がこの映画の真の主人公としてフューチャーされているのではないでしょうか。


♪古池を埋める儀式を執行し郷里の我が家解体されけり 茫洋