蝶人戯画録

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五木寛之著「親鸞」下巻を読んで


照る日曇る日第323回

日本仏教会の巨聖にして偉大なる宗教改革者、親鸞の波乱万丈の物語の後篇です。
おおいに期待していたのですが、ちと物足らず。そのわけは、本作がどうにも尻切れトンボの終わり方をしていること、それから作者が主人公をあまりにも現代人の感覚に平準化しすぎているためか、歴史的現在という架空の時制における親鸞像のエラン・ヴィタール(生命の飛躍)が説得力をもってうまく立ちあがってこないことにあるようです。(ちなみにこの文飾技術に格別の冴えをみせたのが司馬遼太郎でした)

比叡山のエリートであることを弊履の如く投げ捨てた若き日の親鸞は、京の大谷吉水で専修念仏の教えを説いた法然上人の弟子となり、民衆と生活をともしながら生活するようになります。おのれの欲と煩悩にさいなまれながらも、仏道の修業に励むわれらが主人公は、やがて法然の「非正統の後継者」として、唯一無二のお気に入りとなるのですが、やがて守旧派である南都北嶺の意を体した後鳥羽上皇の強権発動によって「念仏停止」の命令が下り、あわれ法然一派は死刑や流罪の厳罰に処せられてしまいます。

親鸞もまた越後に流されることになるのですが、彼が法然の一番弟子である立場を脱して、彼独自の浄土真宗の思想世界を切り開いていくはずの不遇時代の知的格闘がまったく描かれないままで物語が唐突に終わってしまうのは、中途半端そのものです。著者にはいっそう奮闘努力していただいて、聖人の半生記ではなく、完全な親鸞伝をめざしてほしいと思います。

しかし問題は小説の出来映えではなく、専修念仏の教えの是非でありましょう。経文解析や荒修業や只管打座をえいやっと切り捨て、ただただ「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるだけで、悪人はもとより善人さえも極楽往生できる、と説いた宗教家の志操の高さと切れ味の鮮やかさ・激烈さは、当時もいまも変わらない凄みをもって私たちに迫ってくるように感じられます。

♪われに問うほんとうに南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生できるのだろうか 茫洋