蝶人戯画録

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バーンスタイン指揮ウイーンフィルで「マーラーイ短調交響曲」を視聴


♪音楽千夜一夜第132回

今年はショパンとシューマンの記念の年であることは知っていましたが、マーラーの生誕150周年でもあるということを、私は最近レコード会社から続々発売されるマーラー全集の販促宣伝キャンペーンで知らされました。

誰かの記念年だからと言ってその人の記念品を購入する義理もないわけですが、商魂逞しい企業のおかげで今は亡き音楽家の存在についての認識を新たにしたり、彼らの名演奏の記録を破格の値段で入手できたりするのは、それほど悪い気はしません。

今日の昼下がりに仕事をしながら視聴したのは、バーンスタイン指揮のウイーンフィルが1976年の10月にウイーンのムジークフェラインザールでお客さんを入れて録画したマーラーの第6番イ短調交響曲のライブ演奏でした。

第5番のシンフォニーが妻アルマへの愛の告白であったのに対して、その次に作曲されたこの曲には「悲劇的」という名前が与えられ、だからこれはマーラーとアルマとの愛と幸福の生活の崩壊の予言とその実現の実況中継の音楽ということになります。
つまりこの音楽家は、貧乏や不倫や不幸やらを悲劇的に描くことを特技とするわが国の私小説作家の手法を模倣して?、はじめて交響曲という形式で表現したわけです。

なにやらいわくありげな序奏にはじまって、妻との牧歌的な人間関係に亀裂が走り、双方の行き違いや誤解がお互いの不和や対立を深めていくと、指揮者は激しく指揮台の上でジャンプを重ね、オーケストラはマーラー夫妻と一緒に泣いたりわめいたり致します。

そして終曲の第4楽章アレグロ・エネルジコのクライマックスになると、カタストロフは最高潮に達して、楽屋の奥の方から打楽器奏者がえんやこらさと持ち出してきた巨大な木製の大槌が3度にわたってやはり木製の土台に叩きつけられ、われらが愛する主人公マーラーは、心臓麻痺?で死んでしまうのです。

しかしいったいどうして我々は誰がこんな奇怪な、けたくその悪い、ほとんど病気の音楽を聞かされなければいけないのでしょうか。偉大な音楽家を襲った個人的な不幸には衷心からの同情を惜しむものではありませんが、できればこのような四丈半襖の下張の如き身辺音楽、肺病やみ風の私小説音楽、自己中的自分史音楽ではなく、自分の人生を遠くに放擲した宇宙音楽、あるいは森羅万象を対象にした普通の音楽を書いてほしかった。

異様なまでに肥大化した卑小な己の自意識を、なんの慎みも恥じらいもなく大衆の面前にさらけ出し、まるで己がイエスキリストか狂ったニーチェのように「世界苦」を主題とした壮大な音楽として公開しようとするのは、(現に今鳴り響いている音響に限りなく私自身が惹きつけられているとはいえ)、ほんとうはらちもない愚かな行為ではないでしょうか。

マーラーのその悲愴で悲劇的な音楽を、あたかも己がマーラーその人であるかのように錯覚し、偽装して汗と涙の実演を繰り広げるバーンスタインという人にも、最近の私は昔のようには共感できずに、白々とした気持ちで眺めておりました。
赤むけのお猿さんが己の性器を弄んで泣き笑いしているような後味の悪い道化音楽を耳にしたあと、ハイドンのピアノ音楽なぞを聴いてお祓いし、そのどす黒く汚染された心をさっと洗い流した、ある「守旧派」の土曜日の午後でした。


♪ええじゃないかそれがどうなろうとあれがどうなろうとええじゃないか 茫洋