蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

五味文彦編・現代語訳「吾妻鏡8承久の乱」を読んで


照る日曇る日 第353回

鶴岡八幡宮の大銀杏の陰から躍り出た公暁の兇刃にかかって三代将軍実朝が暗殺されたのは建保7(1219)年1月27日の雪降る朝のことでした。

甥の公暁がなぜ叔父を殺そうとしたのか昔から様々な説が乱れ飛んでいますが、実朝の兄頼家の謀殺と同様、やはり背後の巨魁である2代目執権北条義時の仕業でありましょう。
初代執権北条時政を退けつつも大枠では彼の源氏撲滅・北条独裁の野望を受け継いだ時頼は、姉政子の協働を得て、このいまわしい惨劇を実行したのです。

そのきっかけになったのは建保5年1217年6月20日の公暁の鎌倉到着です。どういう風の吹きまわしか仏道修行のために園城寺にいた公暁を政子がわざわざ京から呼び寄せ、当時欠員となっていた鶴岡別当に任じたのですが、これがどうもあやしい。弟の義時が姉のこのおためごかしの行動に関与していなかったはずはありません。 

吾妻鏡」の建保6年12月5日の条によれば、「公暁がなにやら一心不乱に祈願にふけってまったく髪を切ることもない」と書かれていますが、暗殺決行までおよそ2カ月の時点で、彼は北条一族の手の者によって、父の敵実朝の仇を討てと、完全に洗脳されていたのでしょう。

そして実朝が後鳥羽上皇から頂戴した右大臣の地位を拝賀する運命の朝、黒幕の北条義時は「急に心神が乱れ」、御剣役を仲章阿臣に譲って自分は小町の邸宅に引き返しています。これぞ事件の真犯人の動かぬ証拠というものでしょう。

実朝はこの日自分が暗殺されることを予知しており、形見の鬢の毛を公氏に与えたとか、不思議な鳩が鳴いたとか、菅原道真の逸事にちなんで

出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな

という「禁忌の和歌」を詠んだ、などと「吾妻鏡」は嘘八百を並べたてますが、こんな稚拙な歌をあの文学的天才が作る訳がありません。そうではありませんか皆さん?!(←政治センス皆無の某国首相のモノマネ)

さて「承久の乱」では尼将軍と言われて希代の名スピーチで実家の北条政権の勝利をアジりまくった実朝の母、政子ですが、頼朝、頼家、実朝と三大続いた源氏政権については、代が下るにつれてそうとうクールな態度をとってはばかることがなかったように思われます。そんな政子を含めて私は北条一族が大嫌いなのです。


ライバルの御家人どもをなぎ倒し最後は自滅のああ伊豆豪族 茫洋