蝶人戯画録

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小川国夫著「襲いかかる聖書」を読んで


照る日曇る日 第396回

一瞬、彼の遺著「弱い神」以降の作品が発掘されたのかと思ったが、そうではなく、彼の昔の作品をどこかの誰かが編んだ「聖書」を軸にしたエッセイと対話集と未完の小説によるアンソロジーであった。題名にしても彼がつけたものではないだろう。誤解を招くような本を出してほしくないものである。

しかしながら、いま読み直しても80年代の終わりに埴谷雄高との間で交わされた往復書簡の彼による「妄想」の強度と深度と伸張度は異数のもので、彼の広大無辺の思索の範疇には、ゴーギャンドストエフスキー、カント、ロマ書、コリント後書、ダンテ、芥川、荘周、ゴッホなどが含まれ、私たちを存在と非在の彼方へと遠く連れ去っていく。

とりわけアルルで耳を切り、オーヴェル・シュル・オワーズであばら骨に銃弾を撃ち込んだゴッホと、漠然とした不安から自死した芥川とを、「準イエス」と規定し、その2人に想像力と創造力の限りを尽くして妄想対話をさせるくだりは興味深く読めた。

人間には「永遠に守らんとする者」と「不断に成りつつある者」とが存在し、おおかたは前者に属するが、パリからアルルに赴いたゴッホは「死の豊饒」に向かって熱烈に、意志して、成らんとしていた、と説く著者の妄想はけっして妄想ではない。そのことは、ゴッホが、ここカタリ派の聖地で描いた「星月夜」を見れば一目瞭然としている。


「不断に成りつつある者」を存在の根底で突き動かすのは、「永生」への希求ではない。変わらざる死への衝動であり、永遠の死、すなわち「永死」に向かって自己投棄、自己消失しようとするバニッシング・ポイントへの突進である。

「準イエス」としてのゴッホや芥川が、真キリストとしてのイエスに向かうのは、イエスがすでに幾多のバニッシング・ポイントを通過してきた大経験者だからだ、と説く著者は、こうも述べている。

「この不断に成りつつある者は、すでに何回も何回も自分を消した。だから世に喧伝される復活を成し遂げる前に、すでに復活体だった。彼は普通の流れの外に出ていたんだ。創世の時から存在したというのも、その意味なんだろう」

ふむ、その言うやよしと言うべきであろう。

バス停で息子を殴りし「しょうじ」てふ表札尋ぬる極月の宵 茫洋