蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

高橋源一郎著「さよなら、ニッポン」を読んで


照る日曇る日 第427回

かつて夏目漱石はその文学論の中で「およそ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは認識的要素、fは情緒的要素なり」という有名な定義からあの快刀乱麻の独断と偏見を開始し、かの泰斗小西甚一は雅と俗のキーワードであの膨大な日本文藝史を道半ばまで大展開し、伊藤整瀬沼茂樹の衣鉢を継いだ川西政明は文壇というフレームを通じて過去の文学の棚卸を試みようとしているが、我らがタカハシゲンチャンの文学史の特色は、そのいずれの道も選ぼうとはしない。

彼はそもそもの出発点において偉大なる御両所のような立派な前提と仮説を立ちあげず、文壇妄想などとはまったく無縁な場所から、とぼとぼと歩きはじめている。

なんのことはない徒手空拳でこの複雑怪奇な現代文学の最先端に立ち向かって気のきいたセリフのひとつやふたつを言うてやろうじゃないか、という無手勝流の姿勢がいっそ潔く、またそれゆえに新鮮無比な収穫をもたらしているといえよう。それは音楽でたとえるなら、はじめてチエット・ベーカーを聴いたときのような気持ちだ。

ここでは漱石や甚一や政明があざやかに駆使して既存の文学を整序した(はずの)要素還元主義処方は退けられ、そのかわりに中原昌也綿矢りさ岡田利規などの得体の知れない非文学的文学、新しい無の文学、悪魔が生成した胎児のような文学、生も死もないような透明な文学、父母未生以前の文学のようなものたちの、「蠢きなう」に対する直情的洞察とどうしようもない共感が即興的に奏でられている。

明治33年の英国で文学の本質を究めるために古今東西の小説を読むことは「血を血で洗うがごとし」と喝破し、哲学や心理学の研究にいそしんだムク犬の如き文豪の轍をあえて踏み、火中の栗を飛んで火にいる虫の如く拾おうとするゲンチャンの、そこが新しく、そこが赤子のように無防備だが、その成果は目覚ましいものがある。

さよなら、古い文学! 君の、まだ死なないまなこでぢかに確認せられよ。


長男はわが吐きし暴言を鸚鵡返しに叫んでいるとう 茫洋