蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

鄙びたる軍楽の憶ひ〜“自民大勝”の後に来るもの

kawaiimuku2012-12-14



バガテルop161

いよいよ運命の日が近づいてきた。

昔から政治や政治家が嫌いで極端な変化を嫌う私は、今回もどこに入れようかと迷っている。そんな混迷派の私が愚かにも政変を期待して清き一票を投じた元逗子市長の長島選手は、選挙民への挨拶もなく、義理も果たさず、落ち目の民主党から足を洗って早々と戦線から逃亡してしまった。なんと自分勝手な奴だろう。

今回も選挙のポスターやテレビスポットなどを一瞥すると、私利私欲と権力欲に目が眩んだと思しき醜い顔貌ばかりが並んでいてウンザリする。いま日本経済新聞の「私の履歴書」では、かつてこの国の総理大臣を務め、IT革命を「イット革命」と読み下して平然としていた男の自慢話が延々と続いているが、この男が「自分はバカダ大学や産経新聞にコネで入った」と恥じらいもなく公言しているので仰天したが、他の政党の首領も推して知るべし。こんな手合いがコッカコッカコケコッコー!と偉そうに呼号しているから困ったものだ。

さて今回は2大政党の他にいわゆる第三極が出現し、表向きでは原発や災害復興や経済再生政策等を巡って多種多様な選択肢が登場したように見える。それらはどれひとつゆるがせにできない重要な問題ではあるが、それらの帰趨はそれとして、じっさいには現行憲法を基軸とした戦後政治の是非こそが、水面下で激しく問われることになるのではないだろうか。

もとより現行憲法はアメリカ帝国からの押しつけであることは否めず、私のように第1章に異論があったり、第2章に文句をいう連中が増えてきたり、様々な問題点を含んでいることは事実だが、しかしそれが全体としてわが国の指導者と国家の恣な権力の発動と暴走に対する決定的な最後の枷と砦になってきたことは周知の事実である。

あの品性劣悪で極悪非道な暴走老人が口走っているように「憲法のお陰で人が殺されている」のではなく、憲法のお陰でわが国は彼が望むように他国とはみだりに戦争できず、その結果およそ70年の長きにわたって「人を殺したり殺されたりしないで済んだ」のである。自虐とかサドとかマゾなぞと口をきわめて罵っている人たちも、たまにはそんな石原慎太郎憲兵隊長の命令で尖閣諸島に突撃しないですんでいる僥倖を、せめて年に一度くらいは感謝したらどうだろう。「ありがとう憲法!」と。

自民党はすでに本年4月に新しい改憲案を策定し、そこでは「国防軍」「非常大権」「天皇元首制」などが麗々しく謳われている。現行憲法を廃棄してより強権的な内容に改定するだけではなく、象徴天皇制を改めて明治時代のような元首制に変えるというのだが、それは「日本を取り戻す」のではなく、歴史の針を2世紀前の非民主的な昔に戻すという時代錯誤の試みというべきだろう。

もし自民党が第1党となれば石原・橋下の維新と合体した独裁的な極右政権が「合法的に」誕生し、戦後まがりなりにも継続されてきた“民主政治”は楽天的な私たちが思っているより早く崩壊するだろう。

現行憲法はたちまち骨抜きにされて強権的で偏狭で好戦的な国産憲法が誕生し、集団的自衛権を裏打ちするための徴兵制が復活して若者はささやかな愛と自由と平和を奪われ、いともたやすく戦場へ送られるだろう。「シナ」と対抗するアジアの最強国をめざして富国強兵と核武装への道が我等臣民の前途にたのしく、ルンルンとひろがっていくのである。

そういう次第であるからして、今回の選挙で私たちに問われているのは、「短兵急に決められる戦前型強権政治」への回帰か、それとも“相変わらずなかなか決められない、非効率でカッコ悪いオタンチン・パレオロガスでモモンガーのようなお馴染みの「俗流あらえっさっさあ的民主主義」の継続”か、という二者択一である。  

自民大勝の後にやって来るのは、私たちがこれまで見たこともない“地獄の季節”だ。政権交代の果実を収穫できなかった民主党のアホ馬鹿さをサディステイック・ミカバンドのように厳しく懲罰することも大事だが、私たちがとっくの昔に見捨てた超無能政党の「イトレル・チャプリン的」妄想の成就に加担し、戦後70年掛けてようやく形成し得た国家国民の現有政治遺産を根こそぎに崩壊させる愚だけはなんとしても避けたいものである。


ウレピーナ楽しいなニッポン全国ウヨクがウヨウヨ 蝶人