横須賀三笠公園の「記念館三笠」をみて
茫洋物見遊山記第107回
1905(明治38)年5月27日の日本海海戦で大活躍をした、かつての連合艦隊旗艦の「三笠」を見物しました。
ロシアのバルチック艦隊が36隻中撃沈16、自沈5、拿捕6の被害を出したのに対して、我が方のそれはたった3隻の水雷艇が沈没しただけという大戦果を挙げることが出来たのは、その前年の黄海海戦で敵艦隊を逃がしてことの反省から編み出した丁字戦法の成功が大きかったようですが、東郷司令官と伊地知艦長、加藤参謀長、秋山参謀のコンビによる卓越した戦闘指揮が僥倖にも恵まれてあの奇跡的な勝利を生みだしたように思えます。
東郷平八郎の銅像がそびえる海辺の公園に横付けされている戦艦三笠は、海戦の2年前に英国ビッカーズ造船所で竣工した当時の最新鋭艦でしたが、全長122m、排水量15,140トンの三笠はあまり大きくない。横浜の山下公園に係留されている氷川丸が163.3m 、11,622トンですから、主砲の30センチ砲を4門備えているとはいえ、それよりも小さい舟なのです。
船内に展示された海戦の様々な記録や写真、映像、有名な電文、そして思いがけず小さい司令官の戦闘服や余りにも狭い「長官室」「艦長室」などもつぶさに見学することができましたが、なんといっても感動したのは狭い狭い艦橋(ブリッジ)に記された東郷以下4名の指揮官が海戦の間そこに立っていたことを示す足跡の表示でした。
最前列に東郷、その右に伊地知艦長、少し下がったその後ろに加藤参謀長、その左の東郷の背中のあたりに秋山参謀長という位置が、そのまま当日の彼らの「皇国の興廃この一戦にあり」という肌身を晒す決死の心意気を示してあまりあるものでした。
彼らは「天気晴朗なれども波高」い日本海の荒波、前後左右から飛んでくる敵艦隊の砲弾をものともせず、なにひとつ敵の目から彼らを遮蔽する物とてない無防備の状態で夕刻の戦闘終了までこの修羅場に立ちつくしたのです。
じっさい敵の砲弾は彼らがブリッジに仁王立ちする旗艦三笠に集中したために113名の兵員が死亡し、艦長の伊地知は脚を負傷し後部に退きましたが、東郷が立ち去った後はそこだけ乾いた足跡が残されていたという証言があります。
それほどまでにして強敵ロシアから勝ち得た際どい勝利を、その後のわが陸海軍は身の丈に合った果実として賞味することなく、さながらイソップ物語の「牛に挑んだカエル」のように無謀な戦争に乗りだしてすべてを失ってしまったのです。
茫々一世紀、私は往時の英雄たちの雄姿をしのびながら、この小国の民の前途に幸多かれと祈らずにはいられませんでした。
一戦し見事滅びる皇国よりも永久不戦のわが生いとおし 蝶人