蝶人戯画録

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半藤一利著「日露戦争史2」を読んで

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照る日曇る日第578回

 

この本を読んで痛感するのは、一朝事ある時(例えば第2次大戦)のわれら大衆は容易に情動化(例えば橋下現象や民主自公大転換)し、一時の毀誉褒貶に激動して抑制を忘却するということである。

 

その先例が日露戦争の連合艦隊で、明治37年5月に東郷が戦艦初瀬、八島を失った時やウラジオ艦隊の跳梁に手を焼いている時などは袋叩きにされている。

 

ところが8月の黄海と蔚山海戦で奇跡の大勝利を挙げてウラジオ艦隊を撃滅すると手のひらを返したように上村艦隊を激賞する。

 

乃木大将についても同様で、この典型的な「やさしい日本人」タイプの凡庸な指揮官を、大衆はある時は無能、またある時は軍神呼ばわりしてやむときがない。

 

彼の無能さにあきれ果てた大山と児玉が、乃木の権限を剥奪して直接指揮を執ることになって初めて旅順奪還が成ったわけだが、この拙劣極まりない「兵隊皆殺され作戦」を企画、立案したのはほかならぬ児玉(とそれを追認した大山)であった。

 

もっと衝撃的な事実は、203高地奪取以前に、本土から運ばれてきた28センチ巨大榴弾砲の集中爆撃によって旅順港のロシア艦隊は壊滅的な打撃を受けていたことで、もしこのことを事前に日本軍が知っていたら、旅順で死傷者7万4千8百(それに先立つ瀋陽で2万3千5百、沙河で2万571名)の「鬼哭啾啾」「死屍累々」の犠牲者を出さずに済んだということである。これら当時の戦争指導者が(大東亜戦争当時よりは優れていたにせよ)、もう少しましな人物であったなら、民草の犠牲は大幅に減っていただろう。 

 

それにしても、またしても愛国主義が高揚してそれが戦争に転化すれば、我人もはや誰にもとどめることのできない狂乱の渦に巻き込まれていくに違いない。

 

 

わが街で作っておりし口紅をこれからはベトナムで作ると資生堂がいう 蝶人