蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ネイサン・イングライダー著「アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること」を読んで

f:id:kawaiimuku:20130401094501j:plain

照る日曇る日第587

 

2組のユダヤ人夫婦が登場するレイモンド・カーヴァー風の表題作も面白いが、私に強いインパクトを与えたのはその次の「姉妹の丘」という短編だった。

 

1967年の第3中東戦争でイスラエルによって占領されたヨルダン川西岸地区の実質的な主権者は依然としてイスラエル軍である。パレスチナ自治政府はもとより国際世論は彼らの占領地撤退と入植地の放棄を訴えているが、強国イスラエルはその声に耳を貸そうとはせずにますます軍備を増強しながら自国の権益を守ろうとしている。

 

というのが、この国際的な係争地に関する私の理解であるが、この「姉妹の丘」では、パレスチナ人だらけのこの地に1973年に単身入植した2組の家族を描いている。そこを拠点に「強大な都市」を作り上げることを夢見た彼らは、対アラブ戦争で夫や子供を喪うという大きな犠牲を払いながらも、わずか14年後にその夢を実現したのである。

 

それだけの話なら、私は「これは大いなる片手落ちだ。君たちが命懸けで手に入れたと自負している土地の本来の所有権は(1948年の国連決議によって)パレスチナ人に帰属しているのだから、勝利者の正義だけではなく、敗残者の正義についても等分に語らねば小説としても不公平だ」と文句を言っただろう。

 

ところが「英雄的かつ伝説的な偉業」を成し遂げたこの小説のヒロインが、自分の行動の淵源は「この姉妹の丘は、神によってアブラハムに与えられた約束の土地であるという旧約聖書の記述である」とラビたちに確言した瞬間に、この矮小な小説世界からリアルな政治紛争のあれやこれやが姿を消して、一挙に神話的な表徴が立ち現われるので驚く。

 

そこに現れたのは、狂信的なシオニストではなく、遠い昔に生きていた畏怖すべき純朴な古代人、人類の原像とも称すべき原初的な存在そのものなのであった。若きネイサン・イングライダーは、現代ユダヤ人の彫像の奥底にひそむ“原人類の裸像”を浮かび上がらせることに成功したのである。

 

いまもなおさまよえる民に生きているユダヤの神との聖なる契約 蝶人