蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

高橋源一郎著「国民のコトバ」を読んで

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照る日曇る日第588

 

「萌えな」ことば、「官能小説な」ことば、相田みつおな」ことば、「漢な」ことば、などなど様々な切り口で源ちゃんが最新の現代日本語を「メタメタに」斬りまくったエッセイ集である。

 

戦後民主主義を男女交際の自由という観点で徹底的かつ全面的に謳歌したかの「青い山脈」(余談ながら私はこの名曲を「君が代」に代わる国歌にしたいとひそかに考えていたのだが、全く同じ意見を内田樹氏が抱懐していると知って嬉しくなった)で有名な「洋次郎な」ことばや、いま千葉の海岸沿いに住んで東京のアホ馬鹿富裕層をコテンパンにのしてゆく真木蔵人の「クロウドな」ことばも面白いが、さいきん和歌、じゃなかった短歌に目覚めたわたくし的には新進気鋭の若き歌人たちの短歌を俎上に乗せた「棒立ちな」ことばの章が気に入った。

 

かの穂村弘センセの「裏側を鏡で見たらめちゃくちゃな舌ってこれであっているのか」とか、松本秀選手の「カップ焼きそばにてお湯を切るときにへこむ流しのかなしきしらべ」、中澤系選手の「牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらいに完璧に」、奥村晃作選手の「「東京の積雪二十センチ」といふけれど東京のどこが二十センチか」、小林久美子選手の「ねじをゆるめるすれすれにゆるめるとねじはほとんどねじでなくなる」などの作品を前にすると、ここにこそかのアララギ流の鋭い「気付き」の現実観察と繊細な感性がそれこそ「棒立ち」になっていると深くうなづかずにはいられないのである。

 

最後に「こどもな」ことばの章における抄の武藤直樹くんの「ぼく」という作文を本書から無断引用させて頂いて本日の拙い読書感想文の結びと致したいと存じます。

 

ぼくは今二年生です

あまり勉強ができません

でも ぼくもぼくなりに

生きています

あたまわるいけど

学校がすきです

 

 

両手振りスキップしながら跳んで行くあの小学生にもう一度なりたし 蝶人