蝶人戯画録

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村上春樹著「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んで 後篇

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照る日曇る日第590回&♪音楽千夜一夜 304

 

5)晴朗明晰のうちにも悲愴なモーツアルトの音楽のような文章を書いた漱石、ハイドンのような典雅な調べに激情を内封した鴎外、荷風、由紀夫、バッハのフーガのような螺旋運動を繰り広げる健三郎、「春の祭典」のごとき猥歌を高唱する健次。優れた小説においては、引用された音楽の引用ではなく、踊るように歩行する散文自体が音楽の響きを奏でる。

 

6)村上選手も好調な時にはハープシコードで弾いたスカルラッティのような軽快な律動で私たちを酔わせるのだが、今回はいくら耳を澄ませても妙なる調べは聴こえてこなかった。それはもしかすると彼が脳内に英語で記した幻の原文を、精妙な現代日本語に丁寧に置き換えることを怠ったからかもしれない。

 

7)けっして上出来とは思えない比喩の繰り返しや、突然消え去る登場人物の謎を読者をしり目に平気で置き去りにする恣意と乱暴さについて目くじらを立てるのは大人げないとしても、前作の影を引きずったように突然投げ出される「悪霊」「悪霊のようなもの」とはいったい何だろう。というより、説明責任を放棄されたそれらの奇妙な用語と概念は、村上ワールドのワンダーとリアルにいちじるしくなじまない難解さと生硬さを持っているようだ。

 

8)はじめは処女の如くおずおずと開始されたこの物語は、例によって脱兎の如く曖昧模糊とした予定調和の森に飛び込んで、恐らくは二度と姿を現さないだろう。いずれにしても本作は前作の水準には遠く及ばず、残念ながらノーベル賞受賞作品には値しない。

 

どこまでもますぐに続く並木道六尺ばかりのくちなわよ出てこい 蝶人