蝶人戯画録

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チャールズ・チャップリン監督の「街の灯」をみて

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闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.55

 

 

盲目の少女とそのさいわいを願った主人公との再会は感動的である。しかしこのお話も、チャップリンの演出もちょっとやりすぎではないだろうか。いわゆるひとつのステレオタイプではないだろうか?

 

少年が石を投げて割ったガラスをチャプリンが直すというマッチ・ポンプの悪戯をやっていた頃に比べて、ここでは彼の映画作法は成熟はしたかもしれないが、喜劇にとって一番大切なエッセンスを失っていわば退廃している、というような感想を、私ではなくって詩人の中原中也が述べている。

 

で、それを頭の片隅に置いて鑑賞してみると、かつての「キッド」なんかに比べてチャップリンのお涙頂戴の作為のあざとさが気になってくる。われらが喜劇王は、すでにして観客の涙が先取りされているのに、いやがうえにも紅涙を絞りに絞ろうとするのである。

 

いやがうえに、ということでは、大金持ちの男の飛び込みをチャプリンが助けるシーンの繰り返しも少ししつこい演出で、むしろ金持ちのパーティなどで展開される毒々しいまでの乱痴気騒ぎや、ボクシングのシーンでの圧倒的な可笑しさこそ、この映画のハイライトなのだろう。

 

 ファシストの独裁に異議を唱え、庶民の平和と幸福を賛美する喜劇王は、幽かに妖気漂うアナーキストでもあった。

 

 

 

おお、あの欲望もこの欲望も行合の空に消えてゆくのだ 蝶人