福田和也著「其の一日」を読んで
照る日曇る日第629回
伊藤博文、大隈重信、近衛文麿、福沢諭吉、下田歌子、明治天皇など、主に明治に生きた24の著名人のある日の相貌を、仏蘭西演劇の「三一致」の処方であざやかに切り取った連作掌編小説である。同じ題名の書が鴎外にあったのではないかと思ったが、そうでもなさそうだ。
冒頭の巻では、明治2年1月27日の河竹黙阿弥が、不世出の美貌の女形、3代目澤村田之助を楽屋に訪ね、彼が舞台から落下して古釘で足を踏み抜き、医師ヘボンの施術で右脚を切断した事件を自殺未遂ではなかったかと糺す噺だが、自害しそこなって初めて芸の虜となり、片脚で花道を駆け抜ける田之助の艶姿とその真実を見破った稀代の歌舞伎作者の真骨頂がみごとに活写されている。
最後に登場する近衛文麿の「其の1日」は、昭和20年2月14日で、その10か月後に戦争犯罪の容疑をかけられて服毒自殺するこの得体のしれない政治家が、昭和天皇に向かって「万世一系のため、あらゆる敵も、あらゆる味方もすべて突き飛ばして、慌てていただきたい」と進言する姿を真に迫って描いている。
いずれの人物の場合にも、著者が膨大な史実、伝記、史料を探索渉猟するなかから、ぽろりと転がり落ちた珠玉のようなエピソードをもとに、きわめて印象的な逸話が創作されており、その虚実皮膜のあわいに瞬いている文華の精髄を、私たちは心ゆくまで楽しみながら鑑賞することができよう。
おそらくは、著者会心の一冊ではないだろうか。
「フクイチ」を忘れたき人多し秋の風 蝶人