「白隠展」を見て
茫洋物見遊山記第101回
久しぶりに東京に出て渋谷の駅周辺を歩いたのだが、あろうことか路に迷ってしまった。いたずらに広大な駅構内はまるで荒廃した未来都市の迷路のようで、無と空虚そのもの。東急資本による商業施設が完成したり、なおも拡大工事が続くようだが、もはやまともな人間が親しめる空間ではない。わたくしは、池袋、六本木はもちろん新宿も渋谷ももはや心を許せる街ではなくなってしまったことがとても悲しい。
さて江戸時代の僧白隠慧鶴の書画およそ百点を集めたこの展覧会であるが、観音、達磨、戯画、墨蹟をつらつらと眺めて歩くうちに、これが世間でいう怪奇なコレクションどころか、しごくまっとうなアーチストの作品と思えてくるから不思議なものである。
それでも仔細に点検すれば高林寺の布袋座禅などの逸品もあるのだが、バッハにおけるカンタータ、円空における木彫りと同様、彼にとっては揮毫することは仏の教えを実践するほんの手すさびであり、作品の内実なぞどうでもよかったに違いない。
それにしても「暫時不在如同死人」「南無地獄大菩薩」と大書した自由奔放で不羈不遜な書や、これと対照的なかの「すたすた坊主」の稚気はまことに愛すべきもので、江戸の文化の懐の奥深さを思い知らされるのである。
なお本展は来る2月24日まで東京渋谷「ザ・ミュージアム」にて開催中。
フイヤン派の独裁迫る冬の月 蝶人