蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

夢は第2の人生である 第17回

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西暦2014年卯月蝶人酔生夢死幾百夜 

 

 

テレビ局に入社した私は、上司の命令で全国津津浦浦を経巡ってその土地に生きる人々の暮らしぶりを紹介する番組を作り続けていたのだが、東京本社の人間はもはやそんな私のことなど忘れ果てたらしく何年経っても音沙汰無しだった。4/30

 

暴力団武装勢力と対峙していた僕たちは、だいぶ消耗していたが、ふだんはあんなに柔和な高山公平くんが激しくアジっているのを聞くと、「よーしひとふんばりしてみようじゃないか」と勇気が湧きおこってくるのだった。4/28

 

久しぶりに会社の広報誌を見たら全然聞いたこともない連中が会社とも世の中とも関係のない不可解な記事や対談やアホ莫迦な感想を吐き散らしているので、担当の前田さんにその訳を聞いたら「上司が狂ってしまったからどうしようもないの」と言って項垂れた。4/27

 

広告のコンセプトも全体のデザインもコピーの書体と級数までもが決定しているというのに、肝心要のキャッチフレーズがまだ出来上がっていないので、関係者全員がコピーライターである私の方を見詰めているのだが、まったくのノーアイデアなのだった。4/26

 

彼らの物づくりのレベルはかなりいい加減で個性も創意工夫も感じられなかったが、そのときは私はあえて駄目だしをせず、鷹揚に若いスタッフの労をねぎらった。4/25

 

私たちが所属していた自由市民軍はみなおいぼればかりだったので、みな勝手気儘にふるまって正規軍の連中は眉をひそめていたのだが、いざ戦闘となると楽しみながら戦い、しかも強いのだった。4/24

 

ボロボロの飛行艇を修理するために、たくさんの硬貨を入れて大量のコンクリートを機に注入すると、いっぺんに崩壊する危険があるので、わたしは100円玉をちびちび投入しながら、愛機を慎重に修理していった。4/23

 

昨日診察してもらった病院が地震で倒壊したというので、知人の安否を確かめにいったところ、運悪くまたしても崩落が起こって瓦礫の山に呑みこまれてしまったのだが、そんな私を助けだしてくれたのは昔の恋人だった。4/21

 

イケダノブオが「パリに持ってゆきたいのでいい映画を推薦してください」と頼むので、いろんな映画を見まくったがいいのがない。知り合いの若い女性がある中国映画を推薦するのでこれにしようかと思ったが、それは彼女を思いのままに操っているリーチンチンの仕掛けと分かった。4/20

 

フォノグラムの尾木さんが、いきなり悪魔の歌を歌い始めたので驚いていると、誰かが「あの人は最近悪魔に心臓を抜かれてしまったので、ああやって本物のオペラ歌手を目指しているんですよ」と教えてくれた。4/20

 

商品企画室のA子と打ち合わせしていたら、彼女の上司の山口君がいきなりA子と企画室のなかの噂話をはじめた。しばらく我慢していたが延々とやっているので、「おいおい、君たち失礼じゃないか。こっちが打ち合わせしていたんぜ」と文句を言ったが、2人とも知らん顔だ。4/19

 

横町に面した家の奥の部屋には、着物をきてサルカニ合戦のお面をかぶった若い女が、左端でぶらぶらしながら、じっと往来を見詰めている。部屋には小さな裸電球がついているだけで、1つの家具もなかった。4/18

 

「私は広告を出す代わりに、売れない画家の絵を買っているんですよ」と、その右翼の総会屋は小学館のロビーで豪快に笑うのだった。4/17

 

吉兆の残飯を毎日食べて飢えをしのいでいた松田君は、遂に奴隷の身を脱して自由の天地に羽ばたいたのだった。4/17

 

リュクサンブール駅前のカフェに入ったら、昨日スイスで会ったばかりのゴダールが、コーヒーを飲みながら独語の原書でギョエテを読んでいたので「ムッシューゴダール、昨日は大変お世話になりました」と挨拶すると、突然奇妙な東洋人に名前を呼ばれた彼は、一瞬怯えた顔つきになりながらも、ぎこちない笑みを浮かべた。4/16

 

死ぬべき日を迎えていた私の前に、突然蓮池君が蹌踉とした姿で現れて、「広葉の」という大著を世に出したので、これを読んで感想を述べてから死んでくれ、と嘆願且つ強要するものだから、とうとうその日は死ぬることができなかった。4/16

 

事故死した若林君のバラバラの死体は、4つの茶色い断片になって保存されていたのだが、それらがひとつずつ白昼の下に引き出され、バチンバチンと組みたてられていくと、若林君はたちまち生者となって蘇った。4/15

 

巴里に滞在していたら、息子の知り合いだという触れ込みで、全然知らない3人の若者が、入れ替わり立ち替わり私の部屋を訪ねてくるのだった。4/14

 

1985年に私の新居が出来たが、それは1本の巨大な楠を斧で切り倒し、鑿で刻んで作られた手造りの家だった。4/14

 

南蛮から鉄砲が渡来した種子島に、西洋服の第1号も渡来していたというので、それを見物に行ったら、船着き場の浜辺にお洒落な白いケープが置かれている。記念に持ち帰ろうとしたら、某アパレルメーカーが既に買い取った後だった。4/13

 

マーラー交響曲第5番のすべての音符を、広大な正方形の舛の外に押し出すゲームの最終勝利者は、奴隷から解放されるというので、私たちは闘技場の中を必死に駆けずり回った。4/14

 

30坪ばかりの狭い敷地に、我が家のS型と隣の藤井家のF型の2つの住宅ユニットが相次いで到着したのだが、お互い勝手に組み立てを開始したので、もはやなにがどこやら収拾がつかない大騒動になってしまった。4/12

 

原ジョージという名義でアメリカ企業の株券を持っていたら、どういう風の吹きまわしか無茶苦茶に値上がりして億万長者になってしまったので、大阪支店の仲間たちがお祝いしてくれることになった。4/11

 

超有名役者が出演するというので人気沸騰の歌舞伎公演のチケットを買おうと、私は夜も寝ないでパソコンの前に座り込み、ネット販売の時間がやってくるのを待っているのだった。4/11

 

アメリカでアメリカ車を買おうとしていたら、セールスマンが「まずクレジットカードを自分に預けろ」というので「冗談じゃない、お前はいったいどういう奴なんだ」と押し問答しているうちに朝になった。4/10

 

自転車で保谷ヶ谷まで行こうとしたのだが、横浜駅の近所の小汚い一角で、路はおろか方角すら分からなくなってしまった。仕方なく自動販売機に自転車を寄せかけていたら、子供たちがやってきて「ジュースを買うからどけてくれ」と騒ぐのだった。4/9

 

佐藤愛子さんが愛猫の青木愛子を亡くして涙にくれているので、「猫じゃなくて犬ですけどうちの愛犬ムクを霊界から呼び出してお貸ししましょうか?」と提案したのだが、にべもなく却下された。4/9

 

偉大なるお笑い芸人が亡くなったというので、朝から晩までテレビは追悼番組をやっているのだが、誰ひとり「笑っていいとも」とは言わなかった。4/8

 

NHKのアホ莫迦会長が、「朝9時半に君が代を斉唱しない者は全員解雇する」と宣言したので、これに対抗すべく、わが社の会長は「会社でいつもソーラン節を踊っていない者は即解雇する」と宣言した。4/8 

 

イタリア語なんて全然分からないのに、ヴェルディのオペラの字幕製作を依頼された私は、公演が終了するとただちに収録映像を再生し始めたが、そこへ指揮者が飛び込んできて「腹が減ったから飯を食いに行こう」と手を引っ張るのだった。4/7

 

ABそれぞれ50人からなるチームが、完全原始人生活に挑んだのだが、3か月後に現地を訪れてみると、両チームともほとんど生き残った者はいなかった。4/6

 

リゾートホテルの労働者たちは、大幅賃上げを要求して無期限ストライキに突入していたのだが、仲間割れが起こって殴り合いも始まってしまったので、団結がぐずぐずに崩れ去り、お決まりの敗北を喫してしまったのだった。4/5

 

道路混雑を規制する会議に出たのだが、会議がポンポコ狸踊りを始めてしまったので、とうてい結論など出やしないのだった。4/5

 

「こんなに広告の出校があるんだからパブも宜しくね」と誰かがリクエストしたら、婦人画報の戸川さんは「ハハハハ、また冗談ばっかり」と例によって豪快に笑い飛ばすのだった。4/5

 

全身黒ずくめのそのオバハンと、ちょっとしたことから言いあいになってしまった。会合が始まって司会者が挨拶しているというのに、そのオバハンが後ろを振り向きながら、また私の悪口を言いだしたので、私も応酬を開始すると会場は騒然となった。4/4

 

どこかの寄り合いでおいらは連れの席を取っていたのだが、あとからやって来たヤクザが「そこは俺の席だ」と難癖をつけやがったので、最初はしたでに出ていたおいらも、すぐに切れてしまって、彼奴をあっというまにボコボコにのしてやった。4/3

 

図書館に行ったが、平日の真昼間だというのに、誰もいない。仕方なく「誰かいませんか?」と大声を出すと、暗い奥の方から割烹着をきたおばさんが出てきたので「お茶を下さい」と頼んだらハイと答えたきり、いつまで経っても姿を現さない。4/2

 

軍事演習という名目で隣国のアパリティアに進駐したわが軍団は、ここで進撃をとどめるべしという慎重論と、さらにアンゴラ国まで東進すべしという積極論が激しく対立したために、進軍を停止せざるをえなかった。4/1

 

 

なにゆえに普通の国にして喜んでいるこの国だけは戦知らずの国なるを 蝶人