蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

五味文彦著「鴨長明伝」を読んで

f:id:kawaiimuku:20130414155915j:plain

 

 

照る日曇る日第587回 宮廷歌人から中世最大の散文家へ

 

著者は中世史が専門の学者なのだが、歴史と同様文学に明るく、鴨長明の和歌を鋭く詠みこみながらその生涯を辿っている。

 

私は鴨長明なんて下鴨神社禰宜だったのが出家して方丈に住んで「方丈記」を書いた世捨て人くらいにしか認識していなかったのだが、彼は禰宜の出世コースからは早い時期に脱落してしまい、そのうちに和歌に魅入られ、歌人として生きようとしたらしい。

 

俊恵について歌道の修行に入った長明は次第に腕を上げ、その実力は俊成や兼実、寂連、ついには歌の王、後鳥羽上皇にも認められるようになる。49歳となった建仁元年には上皇が発起した和歌所寄人となって新古今集にはなんと10首も選歌され、歌合せでは定家に追いつき追い越そうとする地点にまで到達するのであるが、54歳の春に大原で出家してしまう。

 

なぜ長明が出家したのかと問うて、著者はその答えは「方丈記」に書いてあると答えている。すなわち「権門のかたわらにある者は進退やすからず、たまゆらも心を休むべきときなし。ただわが身を奴婢とするには如かず」云々。

 

大原から日野に移ってまず彼の歌集と歌論書「「無明抄」、次いで60歳のときに書きあげられたのが彼の代表作「方丈記」であるが、ここにおいて(私見によれば)いいのか悪いのかよく分からない歌を山ほど詠んでいた宮廷茫洋歌人は、はじめて中世を代表する近代的な感覚の散文家として颯爽と登場する。

 

長明は琵琶の名人でもあり、「阿弥陀仏などは不要である」と3度唱える勇気のある無神論的世捨て人でもあった。鴨の流れに発した長明の現代にも通ずる(震災や火災、風水害、天変地異などへの)洞察と機知に富んだ鋭い観察眼と合理的精神は、すぐに出現した吉田山の兼好法師にただちに受け継がれ、その潮流は明治最大のコラムニスト正岡子規によって普遍化され、一般大衆の共通知的財産となったのではないだろうか。

 

 

東大寺小泉淳作襖絵のごとき櫻咲きにけり 蝶人