蝶人戯画録

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映画『こころの湯』を観る

降っても照っても第50回

いっけん平凡で退屈そのものの日常生活の中にも、ある日突然ひとつの「映像」がやって来る。そして、ああ、人生はいいなあ、まだまだ世の中も捨てたものではないなあ。と私たちに切実な印象を残して、その「映像」はいずこかへ飛び立ってゆく。消え去ったのではない。折に触れてそれらの「映像」は、わたしたちの心に、鳥のようにふんわりと降り立ち、再会の歌を静かに歌い、疲労と失意のどん底にある者を励ましてくれるのである。

私にとってその「映像」とは、例えば、天安門広場で両手を広げて戦車の前に立ちふさがったひとりの中国人の若者の姿であり、あるいはマルコス大統領を追放してマラカニアン宮殿にアキノ新大統領を迎えたフィリピンの大衆の歓喜の姿である。

『こころの湯』は、北京の下町の古風な銭湯「清水池」の滅亡の物語だ。チャン・ヤン(Zhang Yang)監督の話では、現在北京には40〜50軒の銭湯があるが、昔ながらの銭湯はわずか4,5軒。どんどん姿を消して、日本と同様の健康ランド、総合レジャー的なものに変身しているという。超ハイテク工業化が進行する中国で、前近代的な建築物やコミュニティや人関関係が、古き良き時代の思い出と共にゆっくりと壊れていく姿を、チャン監督は、淡々と描いていく。

夜な夜なコオロギを戦わせたり、鍼灸、囲碁将棋を楽しんだり、幸福な時間を過ごした「清水池」の常連たちは、最後に行き場を失う。ローマや江戸の庶民が、心ゆくまで享受したこの至福の裸体文化も、いつかは終焉の日を迎えるのだろうか。

銭湯の経営者には、かつて日中合作のNHKドラマ『大地の子』で養父役を好演した名優チュウ・シュイ(Zhu Xu)が扮している。そして、老いた父といっしょに暮らしている障害者の次男役は、ジャン・ウー(Jiang Wu)。この姜武さんの風体と演技が、どうも誰かによく似ている。と思ったら、知恵遅れの障害者である僕の息子にそっくりなのであった。従って、これぞ迫真の名演技と断言できる。そうチャン監督に伝えたら、なんと朱旭さんの息子さんも障害者らしい。そんな因縁がある分、朱旭さんの演技にも力が入ったのかも知れない。

この映画の原題は、英語で『SHOWER』となっている。姜武さんが、イエスを洗礼したヨハネのように、ある若者の頭にシャワーを注ぐシーンを見ながら、突然、僕は知的障害者施設の先駆けである近江学園の設立者糸賀一雄氏の逸話を思い出した。

ある知恵遅れの少年が、来る日も来る日も花壇の花に水を遣っていた。そしてある日、糸賀さんは、雨がザンザン降るのに、傘も差さずに如雨露で花に水を注ぐ少年の姿を目にして、なにか大きく深いものを感じ、彼らのために一生を捧げようと決意されたそうだ。
雨の日に花に水を遣る少年―-理由は分からないのだが、いつも涙が出てくるその「映像」を何年ぶりかで脳裏に思い浮かべ、僕は息子のことをちょっぴり考えた。