蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

大島渚監督の「絞死刑」を観て

f:id:kawaiimuku:20130219100838j:plain

 

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.406

 

 殺人を犯した人間を処罰するために、国家(が一体何者であるかはここでは問わないが)はみずからが再び殺人を犯す。すると殺人犯は殺されるべきであると定めたのは国家であるから、国家自身も死刑に処されなければならない。

 

またこの法による因果応報を是とするなら、殺人犯の処刑に携わった国家公務員(例えば谷垣法相)は、たとえ法の名によってであるとはいえ赤の他人を指名虐殺したのだから、国家あるいはその殺人に対する罪を糾明する人(例えば殺人犯の身内など)によって処断される必要があるだろう。

 

すると理の当然としてたちまちその殺人に対する報復が行われ、かくして国家と法が存在する限り、「合法的な死」の連鎖が半永久的に続けられることにもなるだろう。よって国家を廃棄するか、国家の手に因る死刑を廃止しない限りこのジレンマは解けない。

 

大島はこの重い主題に小松川女子高校生殺人事件を引き起こした少年の生と性、その思想と犯罪、朝鮮人問題を重層的にからませながら、事の本質に肉薄していく。

 

いったん絞死刑に処せられた少年がどういう訳か蘇生したことから巻き起こされるこの大騒動がけっして剛直した法理や政治的思弁に終始せず、名優たちの思いがけないユーモアとウイット、猥歌と哄笑を伴う狂騒的ファルスとして描かれていることも本作の価値を高めている。

 

 

病院で2時間待たされ年2回内視鏡検査せよといわれ380円払いたり 蝶人