蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

天上の青

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「これでも詩かよ」第11弾ある晴れた日に第140回

 

 

安倍内閣が誕生してから、我が家では、いいことがない。別に彼のせいとは言いませんが。

 

なんとかホームに入った長男でしたが、通所施設では完全に鼻つまみ者となってお手上げ状態らしい。訳の分からない言葉を繰り返し、大声で叫び、頭をボカボカ叩いているというのです。

 

その訳の分からない言葉というのは、例えば「山川さん、大嫌いです!」というような叫び声であって、山川さんというのは彼の行きつけの歯医者さんのスタッフの名前であり、実際は長男にとても優しくしてくれる女性なのだが、「山川さん、大嫌いです!」というのは表向きだけの科白であって、じつは「お父さん、大嫌いです!」といえないものだから、気の毒にその代わりに彼女が血祭りに上げられていることを私は知っています。

 

昔からひどく短気な私は、仕事の忙しさなどにかまけて、彼が犯した些細な過ち、あるいはまったくの無の罪に対して「こらあ、この馬鹿野郎!」などと、幼い時から現在に至るまで幾度となく怒鳴りつけた。

 

それを発した私がすぐに忘れてしまったそのいわれのない醜い罵声は、長男のそれでなくとも繊細で神経質な脳髄の奥底にくっきりと焼きつけられて、終生取り除くことの出来ない傷跡として残ってしまい、それが折に触れて普段は平静な彼の脳波を激しく乱すのです。

 

生まれつきの脳の障碍ゆえに、彼はほとんどすべてのこまごまとした記憶を滑らかに忘却できないとういう不幸な星の元に生まれました。むかし出会った人の名前、耳にした些細な言の葉、訪ねた場所の記憶、乗った電車と駅の名前、踏切で鳴る警報機の調性などななど。

 

「こらあ、この馬鹿野郎! てめえなんか死んでしまええ!」

 

幾たびも口を衝いて出た私からの心ない暴言は、彼の生まれつきの脳の障碍と密接不可分のおそるべきトラウマとなって、いま彼の心身を鋭く苛んでいるのでしょう。

 

「おお、許してくれえ、息子よ、お前はいい子だ。世界でいちばんいい子だ。」

などと今頃になって頭を垂れて懺悔しても、もう遅い。遅すぎる。後の祭りです。

 

困った、困った。どうしよう。「私、もうどうしていいか分からない。」と絶望に駆られた妻が泣いているが、いまさらどうしようもない。ぜんぶおいらが悪いのだ。

 

かててくわえて、次男と私には相変わらず仕事がない。

私が勇んで書いた52通の求職状のうち返事があったのはたった4通で、いずれも丁重なるお断りでした。がっかり、そしてがっくり。

 

安倍内閣が誕生してから、我が家では、いいことがない。別に彼のせいとは言いませんが。

 

暗い気持ちで窓の外を見るともなく眺めていたら、ある光景が目に飛び込みました。

ことしはじめての天青が、いつの間にやら咲いていたのです。

 

青く透きとおった天上の色の朝顔が二輪。

悩み尽きないわれらの魂の奥の奥まで、限りなく透きとおった天青の花。

朝顔の上の大空には巨大な入道雲が浮かんで、朝からニイニイゼミの合唱です。

 

 

滑川で2匹のアオダイショウが泳いでいた2013年7月4日を「蛇の日」と命ず 蝶人