蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

景山民夫氏の思い出


遥かな昔、遠い所で 第3回

昔、といっても80年代の中頃のことだが、マガジンハウスの「ブルータス」という雑誌の名物編集者で、現在は「ソトコト」の編集長である小黒一三さんから景山民夫という作家を紹介された。

景山氏は長身の都会的な青年で、とても端正な顔立ちをしており、いつもおしゃれないでたちをしていた。

彼は1988年に「遠い国から来たクー」で直木賞を受賞したが、その記念パーティで挨拶に立った角川書店の見城徹(現幻冬社社長)が登壇して、そのラストシーンを二人で泣きながら書き上げたと語ったので、“へえ、小説は編集者と泣きながら共作するのか”、と思ったことがある。

その後何度か会う機会があったが、その時の話題はいつも障碍を持つお互いの子どもについてだった。

障碍といってもいろいろあるが、私の考えでは2種類しかない。親が死んでもなんとか自己責任(嫌な言葉だが)で生きていけるタイプAとそれが不可能なタイプBである。

前者の親は安んじて死ねるが後者の親は、死ぬにも死ねないし、厳密にいうとこの地上においては人間として普通の自由と安楽は許されてはいない。己が死する直前に、たとえそれが地獄であっても愛児を道連れにしようとひそかに考えている。

それゆえにこのタイプB同士の弧絶の悩みと交流の深さは、タイプAよりも深くて濃い。
「同病相哀れむ」ではなく、「同病各自滅す」なのである。

いま世間では格差社会がどうのこうのと世間では喧しいが、真の格差とはタイプAとBとの絶対的格差を指し、それ以外の格差は格差ではない。そこにこそ為政者のなすべき仕事があるはずだ。

なーんて話を、原宿のブルーミングバーで遅くまで話し込んでいたあの景山民夫氏が、ある日突然の自宅の失火で亡くなっちまった。そのとき私は彼を悼むより残された妻子の身の上を案じたことだった。

彼には「人生には雨の日もある」というエッセイもあるせいか、雨の日には彼のことをよく思い出したが、今日は雨も降らないのに、中野坂上の青空に浮かんでいる白い雲を見ているうちに、限りなく心優しかった彼を懐かしく思い出し、死後の彼の幸福と苦悩について考えた。

余談ながら最近のこの業界?では、「障害」と書かずに、「障碍」または「障がい」と書くのがおしゃれなトレンド。

その心は、「障がい者」は、言葉のあらゆる意味において、「害的存在ではない」から(笑)。